にして下さらなければいやよ。主人をからかってやるの、私とても面白いんだから……主人が、つまらないお世話をしているんでしたら、私の方が、きっとお力になれるわ。」と、また他意ない微笑を浮べた。
二
圭子を、わざわざ玄関まで送り出し、圭子がジャリジャリと小砂利に音を立てて、植込のかげにかくれてしまうまで、夫人は女中とともに見送っていた。
「蒸して来たわねえ。曇ったんじゃないかしら……風がないもの……」と、女中にやさしく口をききながら、夫人は二階へ上った。
しかし、自分の居間にはいかず、良人の書斎にはいると、そこの壁にとりつけた電燈《ライト》だけを、ポッと灯して、大きいライチング・デスクの前に立つと、乱暴に電気スタンドの鎖を引いてから、まず真中の抽出《ひきだ》しを、タップリと開けた。その中には、その人の性格らしく、不要なものは、一物もなく、右側に関係している会社の書類が幾つかキチンと置かれ、便箋に封筒、疲労回復薬と、頭痛薬などの小さい瓶が、二つ三つ、夫人の探している新子からの手紙など、影もなかった。
圭子の話から推しても、手紙の取りやりくらいあるかもしれない。良人を、のっぴきならぬように、取って押えるには、何か物的証拠をと、探しているのだが……。
今まで、夫婦間に、何一つ隠すところのないために、どこに一つ鍵のかかっているところもない、この机こそ、こうなっては屈竟《くっきょう》のものである。袖に五つ、抽出しが付いている。その一つ、一つを、そっと、いじった形跡の残らぬように、何かないかと調べはじめた。真白な紙片の中まで、ハタハタと振ってみたりした。だが、最後の抽出しまで何物も、見出すことが出来なかった。
夫人は、少し気落ちがして、最後の抽出しにはいっているピストルや、双眼鏡や、使わない琥珀《こはく》のパイプなどを、空しく味気なく眺めながら、いつもながらキチンとボロを出さない良人の態度が、机にまで示されているような気がして、妙な苛立《いらだ》たしさを感じていた。
夫人は、その時少し疲れを覚えて、腰をおろしたが、ふと先刻二番目の抽出しに、はいっていた良人の小切手帳のことを思いついた。あらゆる問題は、金銭に関係している。そう思うと、夫人は良人の小切手帳をとり出して、バラバラめくりはじめた。
夫人は、月々経常費として、二千円ずつ良人からもらっている。もっとも、臨時の買物などする時は、別であるが。だから、良人の小切手帳は、その二千円の支出を除けば、全部良人の身辺の費用に当てられたはずである。八月から九月にかけての日付を探っていると、控えの方に何の名目も書かれずに振り出された金額が、ザッと計算して、八千円余に上っている。
三
もしや、新子へとは、すぐ疑ったが、しかし、金額があまりに、大きいので、良人がそんなに新子へと思うと、ちょっと信じがたかった。
しかし、姉の演劇運動の後援をするくらいでは、新子にはどんなことをしてやっているかもしれず、その酒場も、案外良人が出してやったのかも測りがたい。もし、そうだったら、良人と新子との関係は、もうかなり深いところまで、行っているのに、相違ないと、夫人の頭の中には、嫉妬から生れるみにくい臆測が充満した。
気がついてみると、もう八時を廻っている。夫人は、驚いて階下に降りると、女中を促して、自動車の用意をさせて、帝国ホテル演芸場へと急がせた。
着いてみると、医学博士のお嬢さんはもう舞台で、「鷺娘《さぎむすめ》」を踊っている。満員の客席の間を、足音を忍ばせて、座席に着いた。
祥子《さちこ》と同い年でも、ずっと小柄な、いたいけな幼子《おさなご》が、白く濃く白粉を塗り、青く光るほど紅を塗って、人形のようなおかっぱで、重たい衣裳をつけて、踊る舞台は、佐四郎人形を見るようであった。長唄連中は、勿体ないような顔ぶれである。撥音《ばちおと》が冴えて、美しかった。踊りは、もう半ば以上進んでいて、町娘の衣裳でくるくる日傘を廻していた子は、黒ん坊に衣裳のしつけ[#「しつけ」に傍点]を取られて、鷺の本性を現し、合の手の、にぎやかにも、おどろおどろとした無気味な音につれて、
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獄卒|四方《よも》に群がりて
鉄杖振り上げ鉄《くろがね》の
牙《きば》噛《か》みならし、ぼっ立《たて》ぼっ立
二六時中がその間
くるりくるり追廻《おいめぐ》り追廻り
[#ここで字下げ終わり]
と、帯に描かれた狐火を、ゆらゆらさせて、いみじく、涙ぐましくなるほど懸命に、踊りぬいていた。終ると、割れるような拍手であった。
夫人は、案外無関心に、その舞台を眺め終ると、早速舞台裏へかけ込んで、踊り手のお母さんに、お祝いやら、お世辞やらを述べた。
その周囲に、ウヨウヨしている顔も、みんな知合いの奥さまやお嬢さまなので、その人達と無駄話をしてから、連れがないので、この次の「三社祭」を見たら、銀座で買物でもして帰ろうかと、大分|味気《あじき》ない顔付で、パーラーの方へ戻って来ると、思いがけなく、木賀子爵が独りで、綺麗な婦人達の中で、紅茶を飲んでいた。
「あら、貴君《あなた》見えていたの……」
夫人は、たちまち賑やかな笑顔で、近づいて行った。
四
引き受けた切符が、あり余っていたので、木賀の妹達には、送っておいたのだけれど、ハイカラの妹達も、来はしないだろうと思っていたのに、木賀が来ているので、夫人は驚くとともに、急にうれしくなった。
「貴君がいらしっているとは思わなかった。……主人を誘わなくって、よかったわ。」夫人はちょっと体裁のよい嘘を云った。そして、
「よっぽど、貴君暇なのね。」とからかった。
「いや、あるお嬢さんの踊りをちょっと見たかったから……」
「どなた……」と、夫人はプログラムを拡げた。
「(四季)の中の春を踊った人。」
「知らないわ。今来たばかりですもの。もう、大きい方でしょう、年の……」と夫人はからかうような眼差《まなざし》で、木賀を見上げた。
その時、開幕のベルが鳴った。
「じゃ、貴君もご用が済んだし、私もお義理を果してしまったんだからこれを見たら、一しょに出ましょうか。銀座へ、一しょに行ってほしいわ。」
「ええ。お供しましょう。僕は、もう出てもいいんですよ。」
「だって私来たばかりで、帰っちゃ少し、可笑《おか》しいわ、この踊りが終ってからにしましょう。これが済んだら、貴君勝手に出て、私の自動車の中で待っていて頂戴!」と云って、二人はぞろぞろ座席へ行く、人混《ひとごみ》の中で別れた。
やはり小さい子供達同士の「三社祭」の悪玉、善玉の踊りが終ると、夫人はサッサと退場して自分の自動車へ行ってみると、木賀はもうとっくに乗っていた。
自動車が、山下門の方へ動きかけると、夫人は小声で、
「春を踊った人、岸田千枝子と云ったわねえ。どこのお嬢さん?」
「いや、ちょっと……」
「おかしいわねえ。その人の踊りをわざわざ見に来るなんて! だから、逸郎さんは、近頃私のところへなぞ、寄り付かなくなったんだわ。」
「いや、そんな訳じゃないんですよ。ちょっと、縁談のある相手ですが、僕はもちろん断るつもりでいるんですが、仲人が、内山の伯母さんだもんだから、ちょっと当人くらいは見ておかないと、ウルサイんでね。」
「じゃその方とは会ったことないの?」
「もちろん……」
「それなら、かんにんしてあげるわねえ、逸郎さん、とてもニュースがあるの。降りてから話すわ。」
銀座の電車道で、自動車が止まった。
五
資生堂で買物をすませると、その向い側の喫茶部で、夫人はボックスで、木賀とさし向いになった。
「さっきいったニュースって、何ですか。誰のニュースですか。」
「今夜聞きたてなんだけれど……誰のことだと思う?」
「分りませんよ。そんなこといったって!」
「ほら、この夏、貴君が軽井沢に見えたとき、南條って、家庭教師がいたでしょう!」
「ええ、南條さん!」木賀は、ちょっとその名前をなつかしそうに、くり返した。
「あの女が、銀座のバーに出ているんですって!」
「女給にですか?」
「カウンターという説もあるけれど、おなじことじゃない、どうせ。」
「だって、あの人……そんなタイプの人じゃないけれど……何か急激な変化があったんですね……」と、木賀は実に意外に思いながら、軽井沢で見た、清々《すがすが》しい、しかし澄んだ色っぽさのある新子の全体を、ハッキリと思い浮べながら、そういった。
「貴君、酒場《バー》へよく行くらしいから、知ってるかと思った……案外逸郎さんあたりが、どこかへ紹介したのじゃないかと思ったわ。」
「ご冗談でしょう。僕は、夢にも知らなかった!」
「じゃ、貴君、あの人が、どこにいるか、探してご覧になったら、どう?」
「探して、どうするんです。また家庭教師になさろうとするんですか。」
「いやな人! だって、男の人って、知っている女が、バーへなんか出ると、とても興味を持つんじゃない? だから、貴君も、かの女に会って、かの女の変り方を見るのも面白いんじゃないかと思って……」
「うむ。」
木賀も、一目見たときから、好ましさで一杯だった人だけに、夫人に唆《そそのか》されると、興味を感じずにはいられなかった。その人の立ち働いているバーの容子などを、想像しながら、
「誰からお聞きになりました? 前川さんから?」と、訊ねた。夫人は、あわてて首を振って、
「いいえ、前川から、聞きはしないのよ、また私があの女が、銀座にいることを知っているなぞと、貴君前川にはいわないで頂戴ね。いったら絶交よ。」と、いった。
「前川さんもそれと知ったら、探しそうですか。」
「その危険もあるし、ほかに私が考えていることがあるの。とにかく、あなたあの女の在家《ありか》を突き止めてくれない?」
圭子を使っている上、木賀も参加させて、どちらからか、事の真相を、一刻も早く知りたい夫人の心である。
六
長い間の接吻――それは、偶発的でも、突発的でもない……。
前川の気持は、青年のように昂揚し、幸福と歓喜に躍り上った。もちろん、それ以上のものを求めようなどという気持の起らないほど、理想主義的なものであった。
持って生れた平和な性《しょう》から、不満な家庭の味気なさに安住することに努め、内にも外にも、人間らしい色彩を失いかけていた彼である。
若い純情な、愛し合う男女が、最初の接吻に、陶酔し、それ以上の邪心がないように……前川も、嵐もなく夕立もなく、心と心とが相触れて獲た新子の唇に、充分満足し、青年のような歓喜に躍り上っていたのである。
仮に人生を五十とするならば、あと十年足らずの前川なのだが、恋愛ヌキの漁色だけに、惑溺している知己のAやBを、心の内に思い起しながら、
(俺は君達と少しは違うのだ!)と得意な気持さえ、胸に湧いて来た。
珍しく、十二時近くまで、スワンで過ごして、日比谷から議事堂横を、自動車で走り過ぎながら、前川は幾年ぶりかに、生甲斐のあるような楽しさを感じた。
しかし、そんな多くの男性が、そうであるように、敬遠して独りにしてある夫人に、何か気の毒のような気がして、妻にも一層優しくしなければならないというように、明るく物が考えられて来るのだった。
門をはいって、植込から見上げると、夫人の居室に、水色のカーテンごしに、ぼっかりと灯がついているのが見える。
彼がモザイクの三和土《たたき》に、靴を脱いでいると、珍しく夫人自身が、階段を走り降りて彼を迎えた。
前川の楽しい気持は、そのまま他愛ない微笑となって、夫人を見た。
「おや、大変なご機嫌ね。」と、夫人は、グッと前川の胸元に、近寄って来ると、若妻のように、前川の唇のまわりの匂いを鼻でクンクンかいだ。
「お酒召し上ったのね。」
「うん、お止しよ。」と、やさしく肩に手をかけて、押しのけようとしながら、前川は久しぶりで、夫人を抱《いだ》き上げたいような気がした。
しかし、夫人は彼の手を冷たく退けながら、ごく
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