のお姉様だというもんだから、ついお目にかかりたくて、お呼びしたのよ。ご迷惑じゃなかった?」と、夫人は言葉遣いもやや砕けて、しかもそれだけ親しみを見せて、こぼれるような愛嬌だった。
「いいえ、どう致しまして、奥さまにお目にかかれて光栄ですわ。」
「失礼ですけれど、舞台の方に関係していらっしゃるだけあって、おなじご姉妹《きょうだい》でも、あなたの方が、ずっとお美しいのねえ。」
「あらまあ!」と、圭子が、うれしがるのを見て、夫人は新子とは違って、芯のないいかにも善良そうな圭子を、いよいよ料理しやすいと、見てとったか、気楽な、砕けた笑顔を向けながら、
「それに、あなたとなら、ほんとうのお友達になれそうだわ。」と、つづけざまに好餌をなげる。
五
鬼も棲《す》み、蛇《じゃ》も棲まん夫人の心の中を知らず、圭子は、夫人の愛嬌に眩惑され、前川さんも、良い方であるけれど、奥様は一倍ました、何という気の置けない、いい方だろうと感嘆していた。
夫人は、心の爪は、油断なく磨《と》いで、しかも面《おもて》は、笑みこぼれながら、
「新子さんとも、あれからまだお目にかかっていないのよ。今どうして、いらっしゃるの。あの方、ずーっと私の家に、居て頂きたかったのよ。それが、ちょっとした行き違いで、急に帰っておしまいになって、私ガッカリしているんですよ。子供もよく、なついていて、ほんとうにいい方だったわ。今、どうしていらっしゃるの?」
「まあ!」と、圭子は正直に呆れてしまった。妹の話では、奥さまとの感情の衝突で、たまらなく厭《いや》であるらしい容子であったが、この奥様のどこが、そんなに厭なのだろうか。見たところ、賢そうで、親切そうで、しかも現在、暇を出した後までも妹のことを案じていてくれるではないか。圭子の考えでは、これはどうしても、新子の心が、わがままで、強情であったとしか考えられなかった。
「奥様が、そんなに思っていて下さるのに、あの人わがままなんですのね。」と、心から気の毒そうに、申し訳をすると、
「いいえ。新子さんが、悪いわけでもないのよ。原因といえば、子供のけんかのようなの。ちょっとこうなのよ……」と、夫人はますます親しみを見せて、支度という字を、自分が小太郎に仕度と教えたことから、それが新子に支度と訂正されたことだけを、全部の原因のように面白|可笑《おか》しく話した。すると、圭子は、たちまち、夫人に同情して、
「妹のことを、悪く云うのは、おかしいですけど、それがあの人の欠点なのですの。ちょっと、誇学的《ペダンチック》で、融通のきかないところが。まあそんなことで、奥様に楯ついたりなんかして、ほんとうに相すみませんわ。ほんとうにそんなことで……」
「いいえ。私も、そんなことに拘泥《こだわ》るのでなかったんですの。私さえ黙っていれば、何でもなかったのに、ついあんなことになって、ほんとうに、お気の毒なことになって……」と、夫人はいよいよ図に乗って、慈愛ぶかさの限りを見せた。
「ご存じでしょうかしら、私が、劇の公演のことで、どうしても、お金が入用になりましたので、新子に無心しましたところ、新子が前川さんにお願いして、お金を出して頂きましたので、やっと公演の始末が出来ましたの。」
「それは、まだ新子さんが軽井沢にいらしった時の、ことなんですの。」夫人は、肝心な点だけは、ちゃんと釘を打っておくのだった。
「はあ、左様でございます。そんなご恩になっていますのに、いきなり帰って参りましたので、家でもみんな、びっくりしてしまいましたの。ほんとうに、奥様のお心持が分ったら、新子もきっと、面目なく思うだろうと、思いますの。私が代ってお詫び致しますわ。」と、圭子は、もう一度頭を下げた。
六
新子が軽井沢にいた項から、もうそんな金を前川が与えていたなど、駭《おどろ》くに足る新事実であったので、綾子夫人は、急に緊張しながら、
「おや、そんなこともございましたの? 主人は、無口な方ですから、私に何にも申しません。だから、ちっとも存じませんでしたわ。ですから、お電話だけじゃ、よく呑み込めないんで、お呼びしましたのよ。私も、新劇はとても好きでございますの……」
「まあ、うれしい!」
「もと、新興座が分裂しない前に、後援者達で作った火曜会というのが、ございましたでしょう。私、あれに、はいっておりましたの。だから新興座の公演は、替り目ごとに、見に参ったものですわ。」
「まあ。左様でございますか。じゃ、ぜひ私達の劇団も、後援して下さいませんでしょうか。まだ、学生が多くて、未完成でございますけれど……」
「いいえ。その方が、かえって熱があって、いいですわ。貴女なんか、ご器量はよし、舞台にお立ちになったら、見事でしょう。」と、おだてると、
「いいえ。でも、初演のときは、割合好評でございましたの。」と、たわいなく得意になるのを見すまし、
「それで、新子さんも、その方面のお手伝いでもして、いらっしゃるの?」と、さりげなく訊ねた。
人生行路、決して左右を見ない、左右どころか、自分がこう思ったら、道のない所までも、ズンズン歩いて行きそうな、漫画的にまで、真っ正直な圭子も、ここでさすがに、ちょっと思案するのであった。
妹が、バーに出ることなど、圭子は大反対なので、そのことについて、新子とは話も一切せず、何事も訊いてもみないが、しかし母や美和子から、間接に聴いたところによると、新子は前川氏が関係しているらしい酒場の、カウンターをやっているとのことである。
それを、夫人が何も知らないのは、可笑《おか》しい。
云ってよいか、どうか、ちょっと思案したが、しかし、こんなに親切な夫人に、物事をかくすのは、いやだったし、もしいったことで、新子が迷惑をするとすれば、それは新子が何か、後暗《うしろぐら》いことをしているからで、新子自身が悪いのであるという風《ふう》に考えた。
「それとも新子さんは、何もしていらっしゃいませんの?」と、やさしくもう一度訊かれて、圭子はついに、我が事のように頬を染めて、
「お恥かしいんですけれど、ただ今|酒場《バー》に出ております。」と、云った。
「まあ、酒場《バー》に、じゃ女給さんですか。」と、夫人の言葉には歴々《ありあり》と、嘲《あざけ》りと侮蔑とが強く響いた。
「いいえ。カウンターのようなことをしているようでございます。」圭子は、あわてて打ち消した。
七
新子が、バーに出ていようなどとは、さすがの夫人も思いがけないことだった。だが、この頃前川氏が、時々酒気を帯びて家に帰って来ることを、それに照し合わせると、良人と新子とを掩《おお》う膜が、一皮一皮めくり取られて来るような気がして夫人は意地のわるい快感に、興奮しながら、しかし表面はあくまで、冷静に、
「たとい、カウンターにしろ、あんな方が、バーに現われるなんて、勿体《もったい》ないじゃございませんか。あんなに、教養も学問もおありになる方が……そんなにまで、身を落しておしまいになるんでしたら、私前川とも相談して、どこへでも、お世話致しますのに。」と、あくまで思いやりぶかい言葉であった。圭子は、ぼんやりと、
「でも、何ですか前川さんのお世話で、はいったようなことを申しておりましたが……」と、云ってしまった。
「まあ! 前川の世話! そんなこと、私にはちっとも申しませんの。おかしいですわねえ。でも、前川の世話だと致しましたら、あの人も考えなしですわ。そんな場所へ新子さんを、お世話するなんて、軽率きわまることですわ。」そう云いながら、もうハッキリ良人と新子の尻尾を掴み得たという、あさましい快感で、モヤモヤ逆《のぼ》せ上って来た。
これ以上叩けば、もっとどんな大きい埃でも出て来るかもしれない。幸いに、この圭子という人物が、白紙のように表も裏もなく、その上こちらの思うとおり、どうにでも染まりそうである。夫人は、自分の策略の成功にひどく、上機嫌になって、
「その酒場《バー》、やはり銀座ですの。有名な家?」と、訊くと、
「いいえ。新しい家で、私名前は存じておりませんの。私、バーなどへ出るの大反対でしたから、よく聴いておりませんの。」と、云う圭子の答に、ウソはなさそうである。
「ほんとですわ。バーへ、お世話するなんていやですわねえ。でも不思議ですわねえ。主人はあまり、お酒も飲みませんのに、人様のお世話の出来るほど、バーに馴染があるんでしょうかしら。」
圭子は、また当惑した。美和子の話では、そのバーは、前川の資本に依るということであるが、そんな当てにもならないことを、前川夫人に話しすることは、何か失礼なような気がして、それには返事をしなかった。だが夫人は、しつこく、
「聞かせて頂戴な。もっと詳しく――ねえ、二、三日のうちに、よく調べてね。私主人をいじめて、新子さんを、どうしてそんなところへお世話したか、叱ってやりますわ。そして、その償いに、もっといいところへお世話するよう申してやりますわ。だって、バーなんか、いけないじゃありませんか。」と、云った。圭子を、体よくスパイにしようと云うのである。
[#改ページ]
夫婦の愛憎
一
圭子は、夫人が酒場《バー》を嫌うのも、新子の身を惜しんでくれればこそと感激もし、またそんなに、夫人の蔑《いや》しんでいる、バーに出ている妹の代りに、顔を赤らめながら、
「はア。」と肯いた。
「貴女《あなた》、その酒場《バー》に行ってご覧になりませんの?」と、夫人は抜け目なく訊いた。
「いいえ。私も、奥さまと同じに、妹が酒場《バー》へなど出ますの、大反対なものですから、行きもしなければ、それについて、訊ねも致しませんの。ただ、銀座裏とだけは、聞いておりますの。」と、相手にバツを合わせながら答えた。夫人は、さり気なく、
「じゃ、お帰りになりましたら、貴女私にお会いになったということは、どなたにも内証にして、そこがどんな筋合のバーだか、前川も時々行くのかどうか、調べて下さいませんか。そして、私にも知らして下さいません? 私、主人をからかってやりたいんですの。私新子さんを酒場《バー》になどご紹介するの、怪《け》しからないと思いますから、証拠を掴んでおいて、たしなめてやりたいと思いますの。その上で、主人にすすめて、主人の会社にでも、ちゃんとお世話するように、申しますわ。私、新子さんは、ちゃんとした方で、充分働きのある方だと、思っていますのよ。あんな落着いた、かしこい方、職業婦人などには、もって来いですわ。」と、口ではそう云いながら、さすがの夫人も、一切自分には秘密で、新子をバーになぞ入れたりしている前川のことを考えると、勝気なだけに、かえって、口惜《くや》しさで、胸がふるえて来るのだった。だからさっきから続けていた愛想笑いが、急にゆがんで、いい気で新子の世話などしている良人《おっと》に対して、出来るだけ辛辣《しんらつ》な復讐手段を、考えることで、すっかり興奮していた。この圭子を、手先に使って、主人が少しも気のつかない内に、新子をそのバーから、追い出してしまうなども一策だが、しかしもっと、主人と新子とを、驚倒させる方法はないかしらと、しきりに考えながらも、圭子には、ちょっと気を更《か》えたように、
「そう、そう。貴女のご用事の方を、お留守にしては、わるいわねえ。この次の切符、お引き受けすればいいんでしょう。」と、気がるく云ったので、圭子は、
「はア。」と、嬉しがった。
「いくらの切符なんですの。」と、もう、女らしいケチな打算が動いて、圭子が、
「一円に二円でございます。」と答えると、
「じゃ一円の十枚、二円の五枚お引き受けしますわ。それでよろしいでしょう。」と、かさ[#「かさ」に傍点]にかかっていってしまうと、夫人の愛想のよさに、百円くらいは引き受けてくれるものと、思っていた圭子は、アテがはずれながらも、
「はア、ありがとうございます。」と、意気地なく、礼をいわねばならなかった。
「その代り、新子さんの酒場《バー》の正体を、明か
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