れたく思ったので彼女は静かに眼を伏せていた。
「じゃ、美沢君の気持が、美和子さんの方へ行ったのですか。」
 新子は、かすかに首を振りながら云った。
「そうでもありませんの。」
「じゃ、……」
 前川は、何か云おうとして、じっと新子の双眸を見つめた。

        七

「じゃ美和子さんが、あの調子で美沢さんに働きかけるので、貴女が身を引かれたという訳ですか……」と、前川は初めて、事の真相に触れて来た。
「ええ。まあ、それもありますの……」新子は肯きながら、静かにいった。
 前川は、新しい煙草に、火を点じながら、やや厳格な調子で、
「しかし、貴女が本当に美沢さんが好きなら、何も美和子さんのために、身を引くには当らないじゃありませんか。それに、美沢さんという人は、もちろん貴女の方が好きなんでしょう。こんなバーなんか、お廃《よ》しになって結婚なさればいいじゃありませんか。」前川は、出来るだけ公正でありたいらしく、感情を殺していった。
「まあ、貴君まで、私をいじめていらっしゃるわ。そんなに好きだったら、たとい相手が妹だって、身を退《ひ》いたりなぞ致しませんわ。」新子は、初めて自分の心をうち明けた。
「じゃ、問題はないじゃありませんか。そんなに、瞼《まぶた》の赤くなるほど、泣くには当らないじゃありませんか。」乱暴にいいながらも、胸の中には、火のように、いとおしさが、こみ上げて来ているのだった。
「あら、だって――美和子は、美沢さんをほんとうに好きでもないくせに、誘惑したように……今度はまた!」と、いって新子は、その平生の賢さに似ず、なまめかしいまでの羞恥《しゅうち》に、もだえて両手で顔を掩《おお》うた。
「今度は、またどうしたと云うんですか……」
「今度は……羞かしいわ。」
 前川は、新子の云おうとしていることが分っているに拘らず、それを新子に云ってもらいたい慾望に燃えて、
「今度は、どうしようと云うんですか。」
 新子は、顔から両手を離し、その熱くほてっている頬を撫でながら、
「だって、あの子出鱈目なんですもの。貴君にだって、どんなことをするか、分らないんですもの。さっきだって、私が階下《した》へ降りないと云うと、じゃ前川さんがお帰りになっても知らないなんて、憎まれ口云うんですもの。私が、持っているものには、すぐ手を出したがるんですもの。とても憎らしいわ。」
 美和子を憎みながらも、いじらしい媚態の内に自分に対する愛情を告白している新子を、前川は限りなくいとおしく思った。
「新子さん、美和子さんなんか、問題じゃないじゃありませんか。僕がどんなに貴女のことを思っているか……」
 前川は、今まで抑えに抑えて来た激情が、一時に溢《あふ》れ出して、前後不覚になると立ち上って、壁によりかかっていた新子をしっかりと、自分の方へ抱《いだ》き寄せた。
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  夫人策動




        一

 十月になってから、いくらか日が詰まっているとはいえ、七時といえば、まだ夕暮の、そこはかとないあわただしさが漂っているのに、広い邸の中はしんとして、寂しいほど静かであった。
 外出姿の綾子夫人は、三面鏡の前に腰かけて、粉を落さないように、もう一度近々と鏡に顔を寄せて、白粉をつけ直しながら、
「ツル。ツルや。」と、激しく隣室にいる女中を呼んだ。緊張した表情で、扉口にかしこまった女中へ、
「もう一度、会社へ電話して、何時頃お帰りになったか訊いてよ。」と、叱りつけるような口調で命じた。女中は、倉皇《そうこう》として下って行った。
 知合いの医学博士の夫人が遊芸好きで、ちょうどいたいけな祥子《さちこ》くらいの女の子に、本式に日本舞踊を習わせていて、その踊りの師匠の花柳|何某《なにがし》の春秋二度の発表会に、今日がその子の初舞台である。
 帝国ホテルの演芸場へ、お義理に引き受けた切符、日頃の交際の手前、ちょっとだけは顔出しをしなければならなかった。
 一人で行くことに決めていたのだけれど、出がけに急に気が変って、その子の踊りだけを見ればよいので、それが終ってしまった後の時間|潰《つぶ》しに、良人《おっと》と一しょに銀座でも歩こうと、急に良人を誘う気になり会社へ電話をかけさせた。と、お帰りになったという。食事をすませて来るのかと、一時間ばかり待ったのに、前川はまだ帰って来ないのであった。わがままな、憤《いきどお》りやすい夫人は、じりじりして来、こうなって来ると妙にしつこく、良人を残して外出することが出来なくなった。
 電話をかけに、下へ行った女中が妙に遅いので、自分も階下に降りてみると、扉《ドア》の半開きになっている電話室から、
「はア。まだお帰りになっていらっしゃいません。」と、いう別な電話を受けているらしい声が、また、じりじりと癇癪《かんしゃく》にさわった。
「もう多分、お帰りになるだろうと思いますが、ハッキリしたところは……」と、背後に、夫人の気配を知ってオドオドと、受けているらしい女中に、
「誰から?」と、激しく訊いた。
「はア、うかがっておきます。」となお先方へ返事しているので、
「誰だって訊いているのに……」と、小声で烈しくいうと、女中はあわてて送話器に、手をあてながら、
「南條様とおっしゃる方でございます。」と、小声でいった。
「南條! 女の人?」
「はい。」夫人の嶮《けわ》しい顔色に、女中はわがことのように顫《ふる》えていた。
「お貸し!」夫人は受話器をひったくった。

        二

 前川夫人は、女中を押しのけながら、
「もし、もし……」と、きびしい口調で呼びかけた。
「こちらは、ぜひ二、三日の内に、お目にかかりたいんですの。だから、ぜひご都合を伺っておいて頂きたいんですの。お願いします。」相手は、まだこちらを、女中とばかり思いながら、電話を切ろうとするのを、
「もし、もし、貴女《あなた》、誰方《どなた》です。」と、夫人は鋭い気勢で問いかけた。相手は、語調の急に変ったのに、気がつき、少々まごつきながら、
「あら、先だって、伺いました南條圭子と、おっしゃって下されば、ご主人はご存じでございます。」と、云った。
 頭に在った新子とは違っているし、声もたしかに、新子ではないし、しかし夫人は語調を変えず、
「もし、もし、南條圭子さんですって! 私前川の妻の綾子ですが、主人にどんなご用でございましょうか。」と、切口上で訊くと、
「あら……」と、小さく、しばらく間を置いて、
「まあ、とんだ失礼を致しました。まあ奥さまで、いらっしゃいますか。私、お宅にお世話になっていました新子の姉で、ございますの。妹が、いろいろお世話になりまして……」と、言葉が改まった。
「まあ、新子さんのお姉さま。そうですか。それは、とんだ失礼を……あの主人に、どんなご用でございますか。」
 姉が主人と交渉があるとすれば、妹の方がより以上に何かあるかもしれないと、女らしい敏感さで、ピンと神経を緊張させた。
「あのう、劇の方の後援をして頂いておりますの。」
「何でございますって……」
「劇、あのお芝居でございますの。私達、お芝居をやっておりますの。」
「新子さんも……」
「いいえ。私だけ……」
「まあ……それは。」
「はア、前川さんには、随分お世話になっておりますの。九月の公演にも、切符を沢山引き受けて頂きましたの……」
 姉を、そんなに後援するのは、妹と何かある! 夫人の心には、もう嫉妬の焔《ほのお》が、えんえんと燃えながらも、言葉だけは、いよいよ丁寧に、
「そうですか。それは、ちっとも知りませんでした。私も、劇の方は、嫌いじゃないのですの。前川から、何も話がありませんでしたから、ちっとも存じませんでしたの。でも、劇のお話でしたら、私も、出来るだけのことを、致しますわ。今、主人は、いませんけれどいらっしゃいませんか。」
 姉を引き寄せて、目ざす妹の消息を知ろうという夫人は、にわかに友達のような親しい物云いをした。

        三

 学問はあっても、人の好い圭子は、たちまち嬉しそうに、
「ありがとうございます。明日でも、ご都合がよければ、伺わせて頂きますわ。」と、云うのを、
「これから、すぐでもいいわ。その代り、すぐいらっしゃいませね。」と、夫人はさり気なく誘った。
「でも、夜分でございますから……」
「こっちは、少しも構いませんわ。どうぞ……その代り、なるべく三十分以内にね。」
「じゃ、うかがわせて、頂きますわ。」と、電話は切れた。側《そば》に、おずおずと立っている女中へ、
「もう、会社の方へ、電話しなくてもいいわよ。」と、云った。女中は、まだオドオドしながら、
「一度かけましたんですけれど、お話し中でお待ちしている内に、今の方から、お電話がございましたので……」と、相すまなそうな女中の云い訳を、背中で聴き流しながら、二階の部屋へ帰って来ると、綾子夫人は、もう一度鏡の前に、苦っぽい笑いを浮べて、腰をかけた。
 もう、四、五年前から、夫婦らしいことは、年にいく度もないという前川である。それだけに、外に女を作るような良人ではないと、夫人は信じていた。もちろん、夫婦生活は不満であった。夫人は、前川氏を意地悪く、真綿で首を締《し》めるような苛《いじ》め方をして、つまり精神的にサジズムによって、その不満を癒《いや》しているような傾向があった。
 南條新子に対して、前川が何となく、好もしい感情を持っているらしかったから、事にかこつけて、暇を出した。二人の間は、それぎりだと思っていたのに、思いがけなく、新子の姉という女からの電話である。姉にまで余計な後援をしているとすれば、新子にはどんな後援をしているか、知れたものではない。その上、気がついてみると、この頃前川の帰り方が、以前よりはずーっと遅くなっている。一昨夜も、自分が歌舞伎から帰ってみると、良人の容子に、自分より、ホンの一足|前《さき》に帰ったらしいところがあった。
(これは、とんだ大きな尻尾を掴んだかもしれない!)と、夫人は憤《いきどお》りとともに意地の悪い快感を覚えて、何も知らぬらしくあわてて飛んで来る新子の姉を待つ気になったのである。電話の容子では、与《くみ》しやすいと見て、少し調子を合わせながら、新子のことを洗いざらい、訊き質《ただ》してやろうと考えたのである。

        四

 新子の姉を待っているうちに、前川夫人は何か思いついたように、呼鈴《ベル》を押して女中を呼んだ。
「いまの電話の人、ちょいちょい来たことあるの?」と、やや優しく訊ねた。
「いつか一度、いらしったことがあるそうですが、私はお取次ぎいたしませんでした。九月中に、一、二度お電話がかかりましたことは、存じております。」女中は、まだ恟々《きょうきょう》としていた。
「そうお。」と、顎であちらへと示しただけでもう顧みず、また鏡に向ったまま、考え始めた。
 女道楽の主人が、嫉妬ぶかい夫人を、操る手管を考えるように、夫人は、良人と新子と新子の姉との三人をどんなに扱うべきかを心ひそかに考えているのであった。
 これは、前にもいったように、夫婦らしい愛情からの嫉妬というよりも、冷えた夫婦愛が内攻して起る病的なものであるだけに、性質が悪性で、相手を苛めぬいて、出来るだけ、嫌がらせて満足を得ようというのである。
 良人が、自分をほんとうは、少しも愛していず、ただ上部《うわべ》の調子だけを合わしていることも、とっくに承知していた。だがそのために、今まで放蕩《ほうとう》したこともなく、長い物には巻かれろ主義で、ひたすら家庭平和を保持している良人が、物足りない以上に、憎らしくさえ思っている。こんないい機会に、良人を取っちめて、ご都合主義の仮面をとりはずしてやりたいという肚《はら》もあった。


 つい、目と鼻の四谷からであるから、二十分とは経たない内に、圭子は前川邸を訪れて来た。
 応接室に通されて、腰をかける暇《いとま》もなく、上機嫌の夫人に迎えられて、初対面の圭子はすっかりうれしくなっていた。
「どうぞお楽に。私一人でしたけれど、新子さん
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