って、コンチタ・スペルビアのスペイン歌謡曲をかけると、自分も小声で共に和しながら、酒場の中を、一、二度行きつもどりつした。
その時、扉《ドア》の開く音がした。美和子は、姉でなかったら、女給のどちらかだろうと思って振向きもしなかった。
「今晩は! いいご機嫌ですね。」それは、思いがけなく前川だった。
「あら、いらっしゃい!」たちまち、美和子は何事もなかったような朗らかさに返って、明るい双眸《そうぼう》に一杯の微笑みを湛《たた》えて、
「お姉さまかと思ったわ。今日は、お早いのね。」
「お姉様は、どうしたんです! 今日は、まだ来ていないんですか。商売不熱心ですね。」
「ううん。違うのよ。」美和子は、含みのある微笑を浮べながら、さりげなく、
「おかけにならない?」と、前川に椅子をすすめた。
前川が、ソファに腰を下すと、美和子も近々とかけながら、
「お姉さま、今しがたまで居たんだけれど……貴君《あなた》が、まだいらっしゃらないと思って……」
と、思わせぶりな物云いである。
「買物にでも……」
「そうでもないの。」
「ほほう。じゃ、お友達でも……」
「ええ。つまりお友達だわねえ。」
「そうですか。」と、前川が素直に受けているのが、物足らず、
「云っちゃ、お姉さまに悪いかしら……」と、前川の気を引いておいてから、
「美沢さんね、ホラお姉さまの愛人だった人ね、その美沢さんが、さっきここへ来ていたの。そして、一揉《ひとも》めしたのよ。」
前川は、さすがにいい気持がせず、
「揉めるって、どうして……」やや、せき込んで訊ねた。
「つまり、美沢さんは、私と結婚する気持なんかないのよ。ほんとうに、愛しているのはお姉さまで、私とのことなんか、一時の戯れだと云いに来たんだわ。ふふふ……」
美和子は、わざと仰山《ぎょうさん》なしかめっつらをして、低く笑ってみせた。前川は、不快なショックを感じて、云うべき言葉がなくなった。
「それで、お姉さま、美沢さんを追って出て行ったのよ。今頃、しんみりと、どっかの裏通りを散歩してるんだわ。私、つまんないわ。」
そう云うと、美和子はエレクトロラにかけ寄って、コンチタのレコードを、アンコールした。
三
街角に、美沢に取りのこされた新子は、ぼんやりしている間に、
「ハイ・ヨウ!」と、目の前を走りすぎる、お座敷へ急ぐらしい芸妓《げいしゃ》をのせた人力車の梶棒に、危うく突き飛ばされそうになって、身を避けると、場所にも在らず、悲しくなって涙がユルユルと流れて来た。
こんな気持ですぐお店へ帰って、美和子と顔を見合わせるのがいやになって、銀座の電車通りの方へ、一人フラフラと歩き出した。
一思いに、ワッと泣けてしまえば、さぞせいせいするだろうが、いろいろ複雑な気持が入り交じっているだけに、悲しみは重く鈍く、胸にわだかまっていて、何も持っていない両手に、頼りない淋しさをそそられて、両方の袖口に、手を差し入れて、我とわが胸を抱くような姿勢で、新子はネオン・サインのにべもなく、続いている銀座の街を、それから二十分ばかり、ぼんやり歩いた。やがて致し方のないことであるというあきらめに、悲しみを心の片隅に追いやって、もう客も来ているであろうバー・スワンへ、戻るべき道を辿《たど》ったのである。
お店へ帰ってみると、客は三組ばかり来ていたが、美和子はと思って、見廻すと、先刻まで自分と美沢とが、さし向いになって坐っていたボックスに、思いがけなく前川と、さし向いになって坐っているのである。
前川が、こんなに早くと思っていなかっただけに、新子は少しあわてたが、前川が向うむきになっているのを幸い、外のお客にはちょっと目礼しただけで、二階の自分の部屋へ逃げるように上って来た。
さっきの美和子の、美沢に対する態度を見ると、もう美沢などには何の執着もないことが分ったので、また美和子らしい出鱈目さで、前川に対してどんなことをやり出すかも分らないと思うと、一刻も油断のならぬような気がしたが、といって美和子と争って、前川のご機嫌を取ることは、死んでもいやだと思ったし、美和子が前川の卓子《テーブル》へ行っている以上、近づくのも汚らわしいような気がしたが、それでも、そのままに傍観するのにはあまりに焦々《いらいら》して来る心だった。新子は、それがハッキリ嫉妬であることが、自分で分った。なにか心も身体も疲れて、壁に背をもたせ、両足をなげ出して坐っていたが、階下《した》のことが気にかかりながら、どうしても降りて行こうという気持にはなれなかった。
二十分間もそのままの姿勢でいると、
「お姉さま、降りていらっしゃらない? 皆様お待ちかねよ。」と、声だけは天真爛漫に、美和子が階下から呼んだ。
四
新子が、ありあまる思いで黙っていると、
「お姉さまア!」と、呼びかけながら、たちまち階段を上って来る騒々しい足音がした。その足音を聞いている内に、新子の胸の中には、自分でも思いがけないほどの激しい憤《いきどお》りを、妹に対して初めて感じた。
「お姉様!」扉《ドア》の外で、もう一度呼んだ。
「何をして、いらっしゃるの?」と、云いながら、美和子が姿を現した。新子は、なお顔をそむけたままで黙っていた。
「前川さんも、さっきから見えているのよ。知っていらっしゃるんでしょう。皆さん、お待ちかねだわ。」美和子が、口を利けばきくほど、それだけ鬱然と新子は、この妹が憎くなった。
努めて、静かに、しかし冷やかに、
「貴女、お家へ帰ってくれたらどう――もう、ここへ来てほしくないのよ。私は……」といった。
美和子も、さすがに、姉の厳しい様子に、ちょっと目を迯《そ》らすようにして、真面目な表情をしたが、すぐに不貞腐《ふてくさ》れて、白々しく、
「へえ――。美沢さんとの喧嘩の、飛ばっちりが、わたしに来るの? 迷惑だわ。」と、いった。
新子は、自分が男だったら、何か手ひどい一言をいって、部屋の外へ突き出したい衝動を感じた。
「お姉様が、帰れといったって、階下《した》のお客様達は、みんな美和子びいき[#「びいき」に傍点]だわ。」美和子は、そんなことまでいった。
言語道断な気がして、新子が蒼白い顔で、グッと黙りつづけているので、美和子も仕方がなく、
「降りていらっしゃらないのならいいわ。その代りに、前川さん、お帰りになっても知らないわよ。」
黙っている新子にも、気になるにくらしい捨台詞《すてぜりふ》を残して、サッサと下へ降りてしまった。階段の中途からは、はやいつも口ずさむ小唄になり、わざと最後の二、三段は飛び降りたらしい騒々しさと、自分のことを何かおどけて報告したらしく、階下のお客達の笑う声や、美和子の甲高い声がきこえて来た。新子は、身内の慄《ふる》えるような口惜《くや》しさを感じた。美和子など、もう妹とは考えまいと思った。姉の幸福なら、どんなものでも、立ち入って来て自分も味わわねば承知せず、しかもそれを制せんとする姉の手を、チクチクと針で刺す――奇怪な動物のようにさえ感ぜられた。新子は口おしさといきどおらしさで、涙が流れ出すと、たちまち糸の切れた珠数《じゅず》のように止め度なく落ちた。
五
泣いている内に、頭が熱して来て、終《しまい》には、悲しさも口惜しさもなく、ただ無暗《むやみ》と涙が出て来た。自分でも、こうしていては、止め度がないと思ったので、気を転じるために、階下《した》へ降りて行ってみようかと思いながら、一時涙を納めてみたが、頭の芯がポーッとしているし、こんな気持では、誰の話相手にもなれないと思ったので、(もう、階下へ行くのは止そう)と、新子は、狂的に頭を振りながら、また泣けそうになっていた。
三十分も経ってから、やっと涙を納めて、考えると、いつか美沢のことは忘れて、階下にいる前川の姿だけが、大きく心の中に浮んでいた。
こんなに、自分が降りて行かないのに、前川さんは、何かの方法で、自分のことを訊ねてくれてもいいのにといったような、甘えたような怨《うら》みっぽい気持で、また涙が出そうになった。
それとも、前川さんは、もう帰ってしまったのかしら、そうとすれば少し薄情な、と思った。
美和子が、つまらないことを云って、前川が気を悪くして、帰ったのではあるまいかと思うと、不安な気がして、容子を見に降りて行こうかと思うのだったが、しかし美和子の声がきこえて来ると、また降りて行くのが、いやになった。
子供に返ったような、新子自身にも、どうにもならない気持だった。
しかし、ともかくも、顔を直そうと、鏡台の前に腰をおろした。重い椿の花片《はなびら》のように、眸が泣き腫《は》れて、すべすべしていた。
そのとき、いきなりノックの音がしたので、新子は、ハッと我に返った。
足音も、気配も、感じなかったのに、……もう一度ノックが続いた。
(前川さんだろうか。こんな顔しているのに、困るわ)と、思いながら、しかし嬉しくてたまらなかった。
(おはいり下さい!)と云おうと思ったが、もしも美和子であったら、シャクだと思ったので、立って行って、扉《ドア》を開けると同時に、
「どうなさったんですか。」と不安そうに訊かれて、新子はやっと微笑しながら、かぶりを振った。涙でよごれた顔もかまわず、むけながら、
「お帰りにならなかったんですの?」と、云った。
「帰れますか。心配で……しかし、ほかに客がいるのに、僕が上って来たら、可笑《おか》しいので、苛々《いらいら》しながら、下で待っていたんですよ。」と、云いながら、新子の傍へ坐ろうとするので、新子はあわてて片隅に片づけてあった椅子を取り出して、前川にかけさせた。
妙に興奮している新子は、ただ前川が自分のことを不安に思って、上って来てくれたことだけで、無上に嬉しく、言葉には云えぬ歓びを、微笑で示すほか、術《すべ》がなかった。
六
思い切り泣いた後の、開け放しの心を、のぞかれているような恥かしさで、微笑《ほほえ》んでいたが、新子は間もなく、緊張した、不安げな準之助の無言に、何か自分の方で、云わねばならないことを感じた。
「あのね。美和子が憎くて、泣いてしまいましたの。みっともないでしょう。」と、少し甘えて手を頬に当てながらいった。
準之助は、キャメルの灰を、無意識に、畳の上に落しながら、
「もっと、ほかのことがあったんでしょう。美和子さんから聞きましたよ。どうなすったんです?」と訊いた。
新子は、首を振りながら、ふとぶっつかった準之助の眼の中に、いつの間にか、愛人同士らしい複雑な表情が宿っているのを見て、あわてて眼を迯《そ》らせながら、自分でもいい加減な返事の出来ない気持になりながら、その場合無難な返事として、
「美和子が、何を申し上げたのでしょう?」と、彼女の方から訊ねてみた。
「美和子さんの話では、美沢さんという方が、さっき見えたそうですね。」
「ええ。」と、新子は、素直に肯《うなず》いた。前川は、そこでちょっと躊躇《ちゅうちょ》していたが、
「その方は、美和子さんと結婚なさるはずになっているが、貴女は以前、その方が好きじゃなかったのですか……」といって、あわてて後をつづけた。
「もっとも、僕が、そんなことを、お訊きする資格は少しもないんですが……」と、弁解した。
新子は、前川に対して、気持の上で、いつわりをいっても、仕方がないと思ったので、素直に柔らかく微笑みながら、
「ええ。」と、うなずいた。
「じゃ、貴女が軽井沢へ来ていられた間に、その方と美和子さんが仲よくなってしまったわけですか。」
「ええ。」
「じゃ、こんなことは、僕として自惚《うぬぼ》れているか、しれませんが、僕があんな軽はずみなことをしたために、貴女と美沢さんとの間が、変になったというのじゃないでしょうか。もしそうだと僕はたいへん心苦しいんですが……」
しかし、前川のぎごちない言葉半ばに、新子は静かに首を振って、打ち消した。前川は、だまっていた。
新子は、もっと前川から、いろいろなことを訊か
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