。
「それよりも……」
美沢は、じっと新子の眼を見つめながら、
「僕は、貴女のお気持が聴きたいんですよ。貴女は、どうして軽井沢から、帰って来ながら、すぐに僕のところへ、手紙なり姿なり見せてくれなかったんですか。」と詰《なじ》って来た。
「その時、すぐにも貴女に会えたら、こんな妙ちきりん[#「ちきりん」に傍点]な三角関係なんか、出来なかったんですよ。僕も、いけなかったですけれど、新子さん! 僕は、貴女に洗いざらい打ち明けて、美和子さんとの話は、打ち切りたいと思ってやって来たんですよ。」
新子が、何か物云う隙もなく、後をつづけた。
「美和子さんは、貴女とはまるで違う。明るくて、無頓着で、超人的な魅力を持っていますよ。それだけに、誘惑されたり、征服慾を誘われたりするものの、心の底からの愛情の動きなんかちっとも感じられませんね。あの人は、心を持たない女ですよ。結婚するには、感覚的な刺戟や、性的魅力の有無などということよりも、心の愛情が一番大切なんじゃありませんか。あの人は、ただあそびのお友達ですよ。ほんとに、心を委せておけるような……」
「でも……貴君のお母様のお話では……」
「母のことなんか云わないで下さい。美和ちゃんは、あんな年寄なんか、掌中に丸め込むのは、お手のものじゃありませんか。それも、僕をほんとうに愛しているからじゃなく、ただ興味本位の一時のお芝居なんですよ……だから、もう飽きてしまって、僕のところへなんか寄りつかないじゃありませんか。」
藪を突ついて蛇! 美和子の煩《わずら》わしさを突き去ろうとして、思いがけなく、美沢との煩悩《トラブル》をつつき出した形である。
七
美沢も、なお言葉をつづけた。平生、口数の少いだけに、こうなるとその切々とした述懐に、力が籠《こも》って来るのである。
「貴女が軽井沢へ行かれた後、不意に美和ちゃんに、訪ねて来られて、その晩か次の晩に、接吻をしてしまって失敗《しま》ったと思ったんです。何の深い考えもなく、全く突発的な出来事だったんです……しかし、僕は、貴女にすまないと思いました。」
そう云われると、新子は自分をアテこすられているようで、身が竦《すく》む思いがした。しかし、(私も、それと同じことがあったんです。全く突然で、深い考えもなく……)とは、告白できなかった。
美沢は、新子の表情が易《かわ》ったのを、自分に対する非難だと思ったらしく、
「だから、僕は貴女が、お帰りになるのを待って謝ろう、いさぎよく貴女の制裁を受けようと思っていたのですが、貴女は美和ちゃんから、どういうことを聴かれたのかもしれないが、今日まで一切何も云ってくれないでしょう。勝手なうぬぼれかもしれないが、口に出して云わなくっても、お互に愛人同士だと思っていただけに、貴女の無言は、貴女の気持を見失ったように思われ、ボンヤリしてしまったんです。それに、僕は自分で犯した罪があるだけに、自分の方からは図々しく、貴女の方へ働きかけることが出来なかったのです。その内に、貴女と前川さんとが……あの方、前川さんでしょう……帝劇から出るところを見てしまったんです。失恋とは、こんなものかなあと思うほど、みじめな気持になってしまったんです。美和ちゃんとのことなんか、あの人から渡される芝居の役柄のような立場を、苛々《いらいら》しながら、勤めていただけですよ。」
言葉づかいは改まっていたが、心のままを素直に打ちあけられて、新子は悲しかった。
軽井沢から、帰って来て、すぐにも美沢のところへ行かれなかったのは、自分にも美沢と同じあやまちがあったからである。
美沢が苦しんでいたくらいは、自分も苦しんでいたのだ。と、急に泣けるくらい、悲しくなって来たのをこらえて、
「ごめんなさいまし……」と、云った。
「貴女は何を謝るんですか。」
美沢は、駭《おどろ》かされたらしかった。美沢は、あやまってはもらいたくなかった。謝ってもらうかわりに、許してもらいたかった。
(そう。美和子のことなんか、どうせあんないたずらっ児相手のことですから、何とも思っていませんわ)と、云ってもらいたかった。
しかし、新子の心に、前川の落している翳影《かげ》は、かなり大きかった。新子は、自分の心持を打ちあけ、お互に許し合って、三月前の二人に帰るべく、あまりに複雑した気持になってしまっていた。
八
「貴女が謝ることはない。僕は、ちっとも貴女に謝ってもらおうと思って来たんじゃない……悪いのは、僕だもの。失策をした僕としては、勝手な云い草だけれど、僕に過ちがあるにしろ、貴女が一度も僕を詰《なじ》らずに、冷然としているんで、僕は何だか貴女が恨めしくなってしまったんだ。貴女とは、お互に随分好きだなんて、思っていたことが、全然僕の独り合点だったんだと思った。すると、何から何まで厭になってしまって……」
そう云いながらも、美沢は自分の云いたい気持が、ハッキリ掴めなくなったように……自分に対しても、新子に対しても、もの足りなさや、苛立《いらだ》たしさが、湧き返って来たように、綺麗な眉や眸を、高い鼻の上へ、きゅっと寄せてしまった。
だが、美沢が何を求めているか、何のために苛立たしくなっているかは、新子にはよく分っていた。つまり、自分の愛である。どんな形式でもいいから変らざる愛を示す一つの言葉である。それが、分っていながら新子は、素直にそれを与えることが出来なかった。
美和子のために、新子は美沢をあきらめてしまったはずであった。美和子と醜い争いをするのが嫌で、美沢を美和子に呉れてやったつもりでいた。しかし、もしそれならば、美沢が美和子との関係を告白し、それが感覚的な一時の過ちであったことを謝っている以上、……また美和子が、美沢に対して、ケロリとしてしまっている以上、美沢を許して、以前のような愛人関係に……いな雨降って地竪まるように、前よりももっと具体的な愛の誓いを交してもいいはずではないか。新子自身さえ、それがそうなるべきはずであると思いながらも、気持はその方へ、ちっとも動いて行かなかった。
「貴方のお気持よく分っていますの。でも、私軽井沢から帰ると、いきなり美和子から聞かされてしまったんでしょう。その上お母さままでいらしったんでしょう。それですっかりもう決心しましたの……それに、私も母を抱えておりますし、あんな出鱈目な妹を持っていますし、姉は家のことなんか、かまってくれませんし……結局、独立して何か商売がしたくなってしまって……」
「じゃ、つまり貴女は前川さんに、この店を出してもらったんですか……」
笞刑《ちけい》を受けている囚人のような声で、切れ切れに云う美沢の言葉には、言外の意味も含まれていて、新子はギョッとした。
九
前川に店を出してもらったかという露骨な問いは、新子のそこだけは触ってもらいたくないと思っている心の点に、触れたので、新子は咄嗟《とっさ》に答えられず、だまって卓子《テーブル》の上に目を落した。
そうした態度は、つまりその質問を肯定していることなので、美沢はすっかり絶望的になってしまって……。
「貴女のお手紙にある、変ったと云うのは、どういう意味ですか……」と、つい皮肉な怨言《えんげん》を云ってしまった。
「それは……」
何か適当な弁解をしようと思ったが、結局前川との微妙な関係は、とうてい美沢には理解してはもらえそうもないので、
「つまりバーなんかに出るようなことになったことを云ったのですけれども、私別に前川さんに、ヘンな意味でお世話になんかなっていませんわ。」と、答えながらも、新子の声は心持ふるえていた。美沢は、すぐもろく折れて、
「いや、こんな質問は、僕としては余計なことでした……大変失礼しました。しかし、貴女がもう、以前のお心持に還《かえ》って下されないことだけは、僕に分ったような気がします。……そういう風に考えてもいいんでしょうね。」
これは、美沢としては、最後の質問だった。
しかし、新子の唇は、かすかに動いただけで、言葉は出なかった。
美沢は、新子の心の奥が、のぞかれたような気がして、索然としてしまった。
こんなに緊張した空気の中へ、いつ戸外からはいって来たのか、美和子が、
「あら、真暗ね!」と、扉口で、電燈のスイッチを押そうとしている声がした。新子はハッとなって、にじみ出ていた涙をかくした。
いつか夕闇が迫って、部屋の中は物の文色《あやめ》も分らないほど暗くなっているのを、二人とも気がつかなかったのである。電燈の光は、ボックスにさし向いになっている二人の姿を、美和子の前に、ありありと照し出した。
「まあ! 駭《おどろ》いた、美沢さんとお姉さまなの! まだお客さま、誰も来ないの。」
「………」新子は、妹の言葉など、耳にはいらなかった。
美和子とても、さすがにその場の空気に馴染みがたいものを感じて、少々鼻じろんだような表情であったが、すぐ美沢の脇へ腰を降して、涙の跡の歴々《ありあり》と見える、姉の顔を見やりながら、
「二人で美和子の悪口を云っていたの?」と、二人の気持を救い、併せて闖入《ちんにゅう》して来た自分の気持も救おうという、よく考えた、さりげない言葉であった。
[#改ページ]
歩み寄る心
一
しかし、姉も美沢も、そんなことは縁が遠いと云うように、笑いもしなければ、美和子を見ようともしなかった。美和子も、取りつく島がなく、マッチを卓子《テーブル》の上で、カタカタと、弄《もてあそ》びながら、急に大人っぽい片頬笑いを浮べると、
「美沢さん。この間|中《じゅう》から、姉さんと三人で、話をしたいって云ってらしったんだから、ちょうどいいわ。ねえ、いい機会だわ。あたし痩我慢ってことが、一番きらいだわ。あたし、潔《いさぎよ》く退却するわ。お姉様達二人で、仲直りなさいよ。」
年も行かぬ、打見《うちみ》には子供らしい美和子だったが、その笑い方と云い、言葉と云い、涙ぐんで、ゴタゴタ云っている美沢や姉を憫笑《びんしょう》し、しらじらしく眺めているというような、底知れない大胆さが含まれていた。
「美沢さんもお姉さまが思い切れないし、お姉様だって、痩我慢で超然として、いらっしゃるなんて、可笑《おか》しいわ。美和子如き問題じゃないわ。バツが悪かったり、つまらない意地を張ってるなら、美和子が握手さしたげる……」と、顎にかかっている美沢の手を、いきなり左の手で掴みかかるのを、美沢はかるくふり払うと、それをキッカケのように立ち上ってしまった。
美沢の態度が、唐突《とうとつ》だったので、新子もハッとなって立ち上った。
「さよなら、美和子さん、僕は君とはもう会わないよ。いいだろう。それから、新子さん、貴女とも、もう会う必要はありませんね。」
美沢の顔は、能面のように、無表情であった。
「いいわ。結構よ。」美和子は、亢然《こうぜん》と、それに答えると、一散に奥へ走って行った。
新子は引き止める口実もなく、何もいうこともないのに、このまま別れるのが、何となく悲しく、別れるにしても、お互に心をいたわりながら別れたいと思うと、今五分でも十分でも、話がしたく、ズンズン扉口の方へ歩き去る美沢の後を追うて、横飛《よこっと》びに戸外へ飛び出すと、男の足早く、もう五、六間も歩き去っていた。
「美沢さん! 美沢さん!」四辺《あたり》を気がねしながら、呼んでみたが、美沢は痩せた肩を、聳《そび》やかしながら、後もふり返らず歩きつづけた。
「ちょっと! ちょっと!」新子も、小走りに後を追いかけたが、美沢はそこの四つ角へ出ると、駐車場の円タクの一つに、相場も定《き》めず、
「まあ!」と、駭《おどろ》く新子を尻目に、飛び乗ってしまった。
二
美和子は、姉と美沢とが、前後して戸外へ飛び出してしまうと、美沢とこのまま別れてしまうことが、何となく劇的で、かえって胸の轟くような亢奮《こうふん》を覚えて、彼女らしく激しい音楽が聴きたくなった。彼女は、エレクトロラの蓋を払
前へ
次へ
全43ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング