男の癖にイ……」にわかに、しくしくと洟《はな》をすすり始めた。
かと思うと、ニコニコ子供のように笑い出して、
「お姉様が、前川さんを好きなわけが、今日はとてもよく分ったわ。あんないい方ないわ。やっぱり、男は四十近い人がいいわね、こちらがどんなわがままをいったってフウワリ受けとってくれるんだもの、いいわ。あたし、お姉さまがつくづく羨しいわ。」
新子は、まるで軌道のない星のように、どこの星座へでも、侵入して来る妹が、つくづく恐ろしくなった。
二
新子は、いくら肉親の妹だからと云って、許せないような気がして、自分の胸に落ちかかるようになって来る美和子の身体を、グイと押し返しながら、
「何を云っているの。私が、前川さんを好きだとか何とか、そんな卑しい想像はよして頂戴よ。私は前川さんと、ちゃんとお交際《つきあい》しているんですよ。そんな余計なことを云うのなら、もう絶対に、お店に来てもらいたくないわ。」と、色を易《か》えるばかりに烈しく云った。
さすがに、美和子も少ししょげて、車が溜池から四谷見附へかかる間、だまっていたが、またケロリとして云った。
「わたし、もう美沢さんなんかと結婚するつもり、ちっともないわ。わたし、思い切って、スワンの女給になって、前川さんから月々お小づかいを貰って、遊んでいる方がよっぽど楽しいわ。」
「美和ちゃん! あまり出鱈目をするのよしなさいよ。私、あなたが美沢さんと、どうなっているのか知らないけれども、美沢さんのお母さんが、あんな話を持ち込んで来た以上、そんなに簡単に中止することは出来ないはずよ。女なんて、そんなに軽々しくするものじゃなくってよ。そんなことをすれば、だんだん自分の値打ちが下って来てよ。」と、運転手には聞えないように、小声ではあったが、かなり険しくたしなめた。
「だってェ……」
「だってじゃないわよ。私だって前川さんに、お世話になる筋はないのを、眼をつむって、お世話になっているのに、貴女《あなた》までがご迷惑をかけるなんて、手はないじゃないの。貴女が、あの方にあまりウルサクするのなら、私あのお店なんかよしてしまうわ。」
「だって、そりゃお姉さまの、つまらない心配よ。前川さんなんて方、お金が沢山あるんだもの、向うでして下さることを、こちらで心配しなくってもいいじゃないの。今日なんか、このハンドバッグのほかに、靴を買うお金まで頂いたの。」と、宵に前川と別れてお店に帰って来たときから、気がついている、あまり気取りすぎて、美和子には、地味じゃないかと思われる鹿革《しかがわ》のヴァニティ・ケースを、とり上げて姉に見せた。
「お金で貰うなんて、下品ね。」
「いいじゃないの。美和子には美和子の考えがあるから、放っといてもらいたいわ。お姉さまは、姉だからと云って、私のすることに責任を持つことないじゃないの。私は、最初あの方とお店で知合いになったのよ。お客と女給としてだわ。あの方だって、私個人に興味を持って、親切にしていて下さるのかも分らないわ。」酔っぱらっている故《せい》もあろうが、姉を姉とも思わぬ不敵な妹に、新子は暗然となって、もう口が利けなくなった。
「お姉様ア。なぜ黙っていらっしゃるのオ。前川さん、これから毎日いらっしゃると云ったわ。あたし、これから甘えちゃうの。とても、いい人だもの。」
三
朝風には、もう秋のさわやかな冷気が、感じられた。簀戸《すど》のかなたに、冴々と青空が、広がっている。新しい生活の最初の馴れない疲労が、ズキズキと背中や後頭部にうずいていた。それに新子は、昨夜美和子のあさましいまでの醜態を見、前川に対する気持を聞かされてすっかり憂鬱になり、床にはいってからも容易に寝つかれなかった。
妹と一人の男を中に、みにくい争いをするのが嫌さに、美沢は思い切って、妹に与えたつもりでいたのに、子供が玩具《おもちゃ》に飽きるように、美和子はたちまち美沢を放り出して、新子の生活に侵入して来て、今度は新子を向うに廻して、前川の寵《ちょう》を争うつもりでいるらしい。今度は、身を避けるのにも避けようがなかった。まだ子供だし、なすがままに委せて見ていればいいようなものの、子供とは云え、どこかに逞《たくま》しい機智が閃《ひらめ》き、それに持って生れた少女魅力《ベビー・エロ》を備え、何をするか分らない出鱈目さがあるし……。
美沢との関係が、なまじ純潔で、誓いの言葉一つ交していなかったし、唇さえ接したことがなかったため、たちまち妹に奪われてもどうすることも出来なかったように……前川とも、ただ精神的な繋がりだけで、一度の突発的な接吻以外は、何のとりとめた間柄ではないだけに、新子は、妹が前川の身辺に、からみつくことは不快だった。
昨日《きのう》だって、前川と美和子とが、一しょに店を出て行った後は、仕事も手につかないほど取乱していた自分が、自分で分っていたし……。これから先も、自分が、前川には遠慮があって、思うことの三分の一も話せないのに、妹があの調子で、渾身《こんしん》の力を振って甘えかかって行ったら……、しかも、あの奔放自在な媚態で……。などと、考えて来ると、新子はいらいらして乾いて来る自分の心を、制しきれなかった。
これはたしかに嫉妬である。しかもかなり烈しい嫉妬であると、気がつくと、その嫉妬の底に在る、前川に対する愛情に、初めて気がついたように、新子は我ながら狼狽した。これは、今の内に善後策を講じないと、どんな悲しいことになるかもしれないと考え出した。自分がどんなに叱っても制しても、どうなる妹でもないし、母にはむろん手に負えないし……新子は考え迷った末、いっそ美沢に頼んで、美和子をしっかり捕まえていてもらうのが、一番いいことだと思った。美沢だって、母をよこすくらいだから、結婚してくれる気持はあるはずだし、一度美沢に会って、美和子に対して、どんな気持を持っているのか、よく訊き質《ただ》した上で、美和子をウロウロさせないように監督してもらおうと思った。それが、昨夜の内にまとまった、新子の思案である。
四
新子は、およそ二月ぶりで、美沢に手紙を書くとなると、無理矢理に押し込んだり、駆逐したりしていた感情が、一々新しい生命を吹き込まれたように、心の隅々に甦って来て、とても平静な気持で、美沢に呼びかけ、美和子のことを書き出すことが、出来にくかった。無意味な小唄の小曲を、幾回となくくり返して、口ずさみながら、自分の感情をまぎらしてから、やっと手紙を書き始めた。
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久しいご無沙汰、おゆるし遊ばせ。
ご存じのことと思いますが、私すっかり変りましたの。ただ今、銀座のバー・スワンという酒場で傭いマダムを致しておりますの。
突然ですが、妹のことで貴君《あなた》と一度お話ししたり、お願いしたいことがございますの。それで、近日中にお目にかかりたいのですが、ご都合おしらせ下さいませ。店の方は、四時からでございますから、それまでなら結構でございます。時間と場所は、そちらでお決め下さいませ。
[#ここで字下げ終わり]
書いてしまうと、気の変らぬ内に封をして、ハンドバッグの中に入れてしまった。
新子は、とりとめては、美沢を憎いとも思っていなかったし、恨んでもいなかった。再び、逢い戻りたい未練もない代りに、心の上で、背いたとか背かれたとかいうような、ハッキリした感情はなかった。こうした結果になったのは、自分の心の上にも、一本調子になれなかった責《せめ》があるし、美沢にも多少の責任はあるが、半分までは妹が悪いのだと思っていた。今では、美沢が妹を引き受けてくれて、良い良人《おっと》となってくれればいいと、願っていたし、当座には幾分でも、妹の行状を直してくれればと望んでいた。もっとも、ジッと眸をやる青空に、滲み拡がる美沢の面影の中には、再び手の届かぬ、貴く得がたい初恋の味が、あるにはあったけれど……。
午後家を出て、ポストのある所へ来るまでに、(厭《いや》だな。美和子のことなんか、成行《なりゆき》にまかせて、美沢さんに会うことなんか、よそうかしら)と、新子はハンドバッグのパチンを開けて、手紙を破り捨てようとしたけれど……。
しかし、今は前川の、愛情を底深く蔵した庇護《ひご》の下に、どうやら息づいている自分の生活を、これ以上美和子に掻き乱されたくなかった。美和子などにどうされる前川氏だとは思い得なかったが、しかし自分の方が、美和子に刺戟されて、前川氏とこれ以上、深入りすることの方が、恐ろしかった……。
五
美沢へ手紙を出してしまうと、新子は美沢との気まずい会合を早く片づけたいと、返事が来るのが、気がかりだった。
だが、返事は、その翌日も翌々日も来なかった。
三日目に、新子が三時頃に、お店へ行って、お掃除をして、開店の準備をしていると、時計が四時を打ったばかりに、フラリとはいって来たお客があった。逆光線で初めはフリのお客かと思っていると、それが思いがけなく美沢であった。新子は、瞬間、ドギマギしたけれど、すぐ他意のない微笑をかれの眼に送った。しかし、美沢は眉の間に、筋を作って、少しも笑わなかった。
ソファと椅子に、焦茶色の卓子《テーブル》をはさんで、二人の間にしばらくの間、沈黙がかぶさった。やっと、新子は、
「どっか、外へ参りましょうか。」と、云ったが、美沢は首をふるばかり……。新子は、わびしい気がしながらも、
「美和子のことなんでございますが……」と、話を切り出した。美沢は、味気《あじき》なさそうな眼を、ボンヤリ新子に向けた。新子は、その眼をなるべく意識しないように、
「貴君のお母様からも、お話がありましたし……美和子も、貴君と結婚したいように申しておりましたんですけれど、……この頃美和子は、まるで貴君とも、全然お目にかかっていないようだし、一体どうしたんでございましょうか……」
美沢は、無言である。つねさえ、あまり口数をきかない人が、何か一杯抗議を盛った沈黙で、向い合われると、新子は勢い、自分一人で喋りつづけるほかはなかった。
「それに、この頃の美和子は、まるで結婚前の娘とは思われないようなことばかり致しておりますの。頼みも致しませんのに、この店へ手伝いに参りまして、毎晩遅くまで、お客さまの相手をして、酔っぱらったりなんか致しますの……。貴方《あなた》とのお話があるのに、何ですか、することなすこと、私には腑《ふ》に落ちないことばかりですの……。だから、一度貴君にお目にかかって、貴君ご自身の美和子に対するほんとうの気持を、お訊きしたかったんですの。」
しかし、美沢はまだ無言であった。
「私も、いろいろお話しいたしますわ。貴君のお気持も、うかがってもいいんですわ。……とにかく、改めて美和子の姉として、貴君にお願いしたいと思いますの。」
美沢は、やっと苦笑して、
「お互に、あさましい話をするようになりましたね。」と、云った。新子もともに、やや笑った。
「だって、仕方がありませんわ。」
(貴君も、私も同じように失策をしたんですもの)と、後の方は心の中で云った。
六
二人とも、やや核心にふれた物云いをしたので、思いがけなく、心の角《かど》が除《と》れ、新子は急に話しやすくなった。
「美和子ね。まるで、とり止めがなくて、手こずっているんですよ。貴君が、結婚して下さるおつもりなら、貴君に監督をお願いしようかと思って……。私の云うことなんか、てんで聴かないんですもの……」新子は、以前の親しみが、半分以上、甦ったような物云いが出来た。
「いや、美和子さんなんて、誰の手にだって負えるもんですか。あの人の気持なんか、僕になんか分りませんよ、千変万化ですよ、僕なんかいい加減、引っぱり廻されていたんですよ。……」そう云って、美沢は、改めて眉をひそめた。
そう云われてみれば、温和《おとな》しく純真な美沢に、美和子を操る力など、最初から無かったことに、今更のように気がついて、新子は更に、味気ない気になった
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