つらえたいし、ヴァニティ・ケースもほしいのよ。」と、買ってもらうにも、自分の趣味は、主張しようとする。
「じゃ、お好みのものを。とにかく、松屋で、お姉さんに上げたいものを、見立てて頂いてから。」
「おお、うれしい。とても素晴らしい。でも、お姉さまの方が、私よりズーッと幸福だわ。」と、云った。

        六

 三階の呉服売場へ、真直ぐに行こうと、自動車を降りると、人混《ひとごみ》をわけて、真直ぐにエレヴェーターの方に歩き出す前川の後から、チョコチョコと美和子が、追いかけて来て、一しょにエレヴェーターに乗ると、前川がためらいもせず、
「三階!」と、命じる背中に、美和子は混んでいるので、蝉のように、くっついたまま、
「前川さん、女みたいに、よく知ってらっしゃるのねえ。」と、低くささやいた。前を向いたまま、前川は苦笑を浮べていた。
 もう九月の二十日過ぎで、百貨店には、ボツボツ秋の新製品の陳列で、単衣物《ひとえもの》の良いものなど見当らないばかりか、いつか綾子夫人と一しょに来たとき、新子のために目星を付けておいたお召の単衣など、ショウ・ケースから姿をかくしている。前川は、うず高く積んである反物を、一反ずつ見る気にもなれず、ウロウロしていて、顔見知りの番頭などに、つかまるのも厭だった。場内を一巡して、またエレヴェーターの前に戻って来て、美々《びび》しく飾られている帯地の陳列を眺めていると、美和子が、
「あれ、ハイカラな帯ね。お姉様には少し華美《はで》かもしれないけれど……」と、海老色の繻子《しゅす》に、草花の刺繍のしてある片側帯《かたがわおび》を指した。そこへ目をやりながら、前川は、その帯の隣にある古風な更紗を、巧みに近代風な図案にした袋帯を見つけて、これは新子に似合うと思った。
「その隣のは、どうです?」と、美和子に訊ねると、彼女は生意気そうに、しばし見ていたが、
「悪くはないわ、少し高そうね。」と、陳列の帯がすだれ[#「すだれ」に傍点]のように垂れている中に、首を突っ込んで、値段を調べた。
「七十七円だわ。袋帯にしては高いのね。」と、もどって来た。
「これがいい、これに定《き》めましょう。」傍に立っているショップガールを、眼でさし招くのを、美和子が、
「あら、お買いになるの。お姉さまいいわねえ。」と、云った。
 前川は、今日は夫人が、長唄のお稽古に行っているので、デパートへなど来るはずはないが、しかし万々一ということもあるので、大いそぎで金を払うと、包んでくれるのを待ちかねながら、
「食堂は上へ行きましょうか。下へ行きましょうか。」と、美和子に訊いた。美和子は、何となく気落ちのした顔で、店員の手から、帯の包みを受け取りながら、
「下がいいわ。お姉さま、羨《うらやま》しいわ。」と、云った。

        七

 美和子が、姉を羨んで、しょんぼりしてしまったのを、慰めるため、エレヴェーターで降りながら、
「美和子さんの結婚のお祝いには、何か素晴らしいものを、プレゼントしますよ。」と、お世辞をいった。
「あら、お姉さま、お喋りだわ。そんなことまで、ご存じなの……。でも、まだ分んないの、どうなるか……。いま、ビフテキを喰べながら、お話しするわ。私、ちょっと煩悶してるところなの……」と、男の子のように、明るくいった。実のところ、前川の如き中年の男にとっては、美和子のような年頃の女の子の、いうこと為《な》すこと、一々が思案のほかであった。
 洒々《しゃあしゃあ》と、自分の結婚のことについて、馴染の浅い大人をつかまえて、底を割った話をするかと思うと、下の食堂へ行ったときは、その話はケロリと忘れたように、自分一人の食事を、怯《わる》びれもせず、註文して、紅茶一杯でつきあっている前川になぞ、一切気を使わず、プディングを頼んだり、果物を取ったりしているのであった。
 何本目かの煙草に、火を点《つ》けながら、前川は実感をそのままに、
「美和子さんなんかに、煩悶なんかありそうもないですがね。」というと、美和子は、子供のように、かんむり[#「かんむり」に傍点]を振って、
「大在《おおあ》りなの。そのね、結婚しようっていう人が、愛してくれるってところまで、まだ行っていないの。私に対して、ただ遊び相手みたいな気持しか持ってくれないんだもの。それが、癪《しゃく》なの。」
「だって、もう結婚することに、定《きま》っているんでしょう。」と、美和子の素直な告白に、微笑ましくなって、やさしく云うと、
「それが、とてもおかしいの。あんまり、その人と遊び過ぎてしまって、私お家へ帰らなかったの。それで、その人のママさんに、お家へことわりに行ってもらったの。するとそのママさんが、気を廻してしまって、お母さんや新子姉さんと、縁談なんか始めてしまったの。少し困っているのよ。」
「いいじゃありませんか。遊び過ぎるくらいなら、貴女だってその方《かた》だって、お互に好きなんでしょう。」
「私は好き。でも、その方は私が好きかどうか疑問なのよ。その方ったら、新子姉さんを、とても好きだったの。今だって、きっと好きだと思うわ。」と、アケスケな話に、準之助は、思わず引かれるように、美和子と視線を合わせて、相手を見つめた。
「じゃアつまり、お姉さまと、愛人関係だったんですか。」と、緊張して訊いた。

        八

 新子に愛人があったかどうかは、前川にとって、かなり気にかかることだった。
「ええ、そうだったのよ。」と、美和子はアッサリ肯定してつづけた。
「でも、美沢さんって方《かた》、気が小さくて神経質でしょう、お姉様はデンと落着いている方《ほう》でしょう。だから、いつまで交際《つきあ》っていても、あまり発展しないのよ。ところが、この夏、お姉さまが軽井沢へ行ってしまったでしょう。その留守に淋しがりやの美沢さんは、少し自棄《やけ》で、私と遊んでしまった形があるのよ。……ところが、この頃、たちまちつまんなくなってしまったの。だって、結婚っていうことになると、美沢さん、とてもいらいらしてしまっているの。一しょにいても、ちっとも楽しくないの。だから、私お姉さまのところへ、毎日手伝いに行くのよ。」
「だって、貴女は好きなんでしょう、その人が。」前川は、新子にも関係のあることなので、もう一度改めて訊き直した。
「ええ、そりゃ……でも、私フラフラだから、自分でもとても困るわ。お姉さんのお店へ行っていると、何だかあんな仕事が、ほんとに自分の性に適《あ》っているような気がして、この頃、結婚なんかどうでもよくなってきちゃったのよ。」
 あんまり、物いいが率直で、かえって嘘か真実か、区別がつかないような美和子に、前川は思わず苦笑を浮べながら、胸の中は、前にいる美和子のことよりも、新子のことで一杯だった。
 新子に、つい最近まで愛人があったとして、それが今美和子と結婚しかかっているとしたら、前川はその結婚が滞りなく、早く纏《まと》まってほしかった。新子の周囲には、愛人らしいものの、翳影《かげ》も落ちていない方が、のぞましかった。こうして、新子の面倒を見ていて、いつかどうしようという野心は、神に誓ってないと前川は自分で思っている。また軽井沢で、自然の力と境遇の偶然性に駆られて、ちょっと唇を触れただけでも、その怖しい報いが、踵《きびす》を接してやって来た。だから、懲《こ》り懲《ご》りしている。清浄に、潔く、心持の上でも、その野心の芽を摘み取っているのであるが、しかし自分があきらめているだけに、新子の周囲も、掃き浄《きよ》められたものであって、ほしかった。自分が足を踏み入れない聖域には、他人にも足を踏み入れてもらいたくなかった。だからその美沢という男は、早く美和子と結婚してほしかった。
「でも、その美沢さんという方は、いい方じゃないんですか。」と、前川がおだてるように云うと、
「そりゃとても。……新子姉さんだって、随分好きだったのよ。」いたずらっ子の美和子は、知ってか知らずにか、前川を更に心配させるような返事をした。

        九

 新子が、美沢という男を好きであったと聞かされて、前川には急に、自責の気持が起った。二人の相愛関係が破れて、美沢が、美和子の方へ走っている原因には、自分というものがあるのではないかと思ったからである。自分が、新子に必要以上に、親切にしたばかりでなく、あの思いがけない雷雨の中の出来事のために、二人の関係が崩れたのではないだろうか。自分は、新子の良人《おっと》にも愛人にも、成り切れないくせに、徒《いたず》らに新子の運命を狂わせているのではないかしら。そんなことを思うと、自分は今一層、新子を慰め、いたわる責任があるような気がした。
(あの演劇マニヤの圭子さんと、この恐るべき妹と、新子さんも大変だな)と、前川は考えながら、無邪気そうに、バナナを喰べている美和子を眺めていた。
「ねえ。サエグサへ、一しょに寄って下さる。」
 前川は、腕時計を見ながら、「もう、五時ですな。いかがです。貴女が一人で、ゆっくりお買物なすった方が、楽しくありませんか。僕、ご費用だけは差しあげておきますから。」
「ええ、それもそうですけれど……じゃ、こうして下さらない。――サエグサだけ、つき合って下さらない。サエグサから、私をローヤルまで、円タクで送って下さって、それから会社へいらしってもいいわ。」
 前川は、苦笑しながら、「サエグサは、すぐ前でしょう。」
「ええ、だって厭だわ。私、お姉さまのために、ここへ来て、もう頭なぞ、やってもらう暇がなくなったんですもの。それだのに、私の買物となると、おっぽり出されるなんていやだわ。それに銀座なんか、少しの間だって、独りで歩くの、間がぬけているわ。」前川は、仕方なく肯いて立ち上った。
 松屋を出て、電車通りを横ぎり、そこの洋品店の前で、前川はショウウィンドーを見ながら待っていた。美和子は、十分もかかって、自分の好みのハンドバッグを撰み出すと、表で待っている前川のところへ来て、
「ねえ、ハンドバッグと靴とで、お姉さんと一しょに、七十円くらいまではいいでしょう?」
 前川は、美和子らしい得手勝手な金額に微苦笑しなら、「どうぞ。」と云った。
[#改ページ]

  愛情と嫉妬




        一

 その夜は、特別上機嫌の美和子が、若い会社員風の五人連れの席に一人交じって、十二時近くまで唄を歌ったり、卓子《テーブル》と卓子《テーブル》とのわずかな隙で、ダンスをしたり、おしまいには、ハイボールのやり取りをはじめた。男達は、面白がって美和子にばかり飲ませるらしく、美和子はすっかり酔っぱらってしまい、前髪を切り下げている円顔は赤くなって、まるで可愛い金時のようであった。誰彼かまわず、しきりとからんで行く醜態に、新子はひきずるように、二階へ上げたが、しみじみこれでは困ると思った。
 一時に店を片づけて、美和子を介抱しながら、自動車に乗ったが、美和子は車が動き出すと、気持が悪くなったらしく、水のようなものを、ゲラゲラ吐き出した。
「困りますね。何か敷いてくれませんか。」運転手は、ブツブツ云いながら自動車を止めた。
 新子は、妹の浅ましさに泣きたいような気持で、脊《せ》を撫でてやると、美和子は思いがけなく、運転手に啖呵《たんか》を切り始めた。
「あなたの車なんか、よごさないわよ。ヨッパライを乗せてるんだから徐行してよ。お金なら、いくらでもまして上げるわよ。」運転手は、苦笑しながら、しかし云われたとおり、静かに走り始めた。
 美和子は、姉の肩に身をすりつけて、
「ねえ、楽しいわ。」と、酒臭い溜息をした。
「楽しいもないわ。そんなになって醜態だわ。明日からお店へ来るのお断りだわ。」
「お姉さまの意地悪!」と、一層新子の胸に、顔を埋めて、甘ったるい泣言を云い始めた。
「美沢さんなんてエ、駄目なの。美和子、酔っちゃったから、ほんとのことを云っちまうわよ。美沢さんなんか、心ならずも、私と仲よしになったもんだから、今になって何か云うと、私にばかり責任を被《かぶ》せたがるのよ。
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