え。あした来て下さる?」と、甘えかかった。
「ああ来よう。」
「きっとね。私六時までに来ているわ。」戸外まで送り出して、前川の肩を、「サヨナラ。」と云って、軽く叩いた。
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掻き乱す者
一
二夜、夜更《よふか》しが続いたので、朝は深い眠りで、明るくなったのにも気がつかず、新子は、十一時半頃、やっと眼を覚した。傍の美和子は、まだ綺麗な寝顔で、しんしんと眠っていた。枕元に、美和子宛の速達が来ていた。表書《おもてがき》の筆蹟が、努めて違えてあるようだが、どこか、美沢のそれらしかったが、裏を返しては見なかった。新子は、美和子を起してやろうと思ったが、止してしまった。
昨夜、お店で前川がご不浄に立ったとき、(明日二時、ちょっと来ます)と、行きずりに囁《ささや》いたので、早く店へ行かねばならず、大急ぎで化粧をした。
姉の幸福は、自分もちょっと噛《かじ》ってみねば、気のすまないような美和子に対して、新子はある煩わしさを覚えていた。美和子が、毎晩のように、お店に現われると、結局美和子が、バー・白鳥《スワン》に駕《が》する王女になってしまうような気がした。だから、今日も美和子が、(一しょに行く)などと云い出さない内に、サッサと家を出かけてしまいたかった。どこからか聞えている昼間の演芸放送が、ニュースに代りかけても、美和子は起きて来なかった。
銀座へ来たのは、一時半を過ぎていた。店には、もう前川が、会社のひまを盗んで来たらしく、帽子も被《かぶ》らず、やって来ていた。
「お待たせしました。」
「いや、僕も今来たばかり……」と、右手に持った金属性の鳥籠を、どこへ置こうかと、部屋を見廻していた。
「まあ。カナリヤですの……可愛いこと。」
「いま来がけに、そこでフラフラと買っちゃって、水盤の上へでも吊ろうかと思っているんですが……」
「可哀想ですわ。お店じゃ。夜更しをして、煙草にむせて、お酒に酔って……」
「じゃ、貴女《あなた》のお部屋にしますか。」
「ええ。」と、新子が手を延ばして、籠のてっぺんを持とうとすると、
「僕が、持って行って、上げますよ。ウッカリ持つと、水をこぼしちまう……」と、前川は籠をぶら下げて、新子の部屋へ上って行った。新子も後に従って行った。カナリヤが、籠の中で怖れるように、忙《せわ》しなく短く、鳴いている。カラリカラリと前川は、カーテンを開いて、出窓の上に鳥籠を安定させると、新子を振り向いて、何と云うことなしに微笑した。
新子も同じように、微笑しながら、この世に幸福を盛る器があるとすれば、自分はその中にいるような、晴々したのどかな気持になっていた。もっとも、その器の中にいるだけで、ほんとうに幸福であるかどうかは、別問題であったが……。
二
しかし、そうした幸福感が、間もなく妙に新子を切なくした。なぜといえば、前川は、小さい椅子にかけて、葉巻をくゆらせながら、開店景気とはいえ、この二日間の売上げの好かったことを話し、でもこれが当分続くとしても、やがて常連だけになり、そこで初めて店の収入が決まるというような、その場合の新子の気持とは、およそそぐわない話をし始めたからである。新子は味気《あじき》なく、物足りない気がして悲しかった。
「会社の方、まだお仕事があるんじゃございませんの?」
「いや、別に。帽子やステッキを持ってくれば、会社へ帰らなくってもよかったんです。でも、今日は六時までに、家に帰らなければ……」
「祥子さんや小太郎さん、お元気なんでしょう。」
「ええ、しょっちゅう、貴女のことを云って、会いたがっていますよ。それに、路子も、たいへん貴女に、すまながっています。今度、何か機会を作りますから、子供をご覧になりませんか。」
「ぜひ、どうぞ。」
話していても、新子は何となく不満である。もっと外の話がしたい。もっと心に触れる話が……こんな話で飽きたらないのは、結局前川を愛しているためだろうか。と新子は、自分の心を探ってみている。前川とても、同じ気持であろうか、他愛ない話を、あれやこれやとしながらも、容易に腰を上げかねていた。時間ばかりが、切なく過ぎる。突然、
「お姉さまァ。上にいらっしゃるの!」ハッとするほど陽気な声がして、バタバタと、階段を上って来る足音がした。
「僕、居てもかまいませんか。」と云う、前川の言葉の終らぬ内に、部屋の中へ、美和子が飛び込んで来た。
「あら!」前川を見ると、さすがに顔を赧《あか》くして、「お姉さま、ちゃんとご紹介してよ。」と、恥かしそうに、前川から顔をそむけて、姉の肩に甘えかかった。新子もつい、おかしくなって、笑いながら、
「前川さん。妹の美和子でございます。」と、紹介した。
「そうですか。昨夜《ゆうべ》は、あんなに僕達をおかつぎになって! これは驚いた。」と、前川はびっくりして、美和子を見直した。
「だって、私はどこの方だか、分らなかったんですもの。お姉さまのお世話になっている前川さんだとは夢にも知らなかったんですもの。すみません、どうも。」と、早くも別なウソをつく円転自在な美和子に、姉は心の中で、何かしら油断のならぬ気がした。
三
いきなりはいって来た美和子をたしなめる気持も手伝って、
「貴女、こんなに早く何しに来たの?」と、新子が詰《なじ》ると、
「カットが、こんなに伸びちゃったんだもの。美容室に行くの。」と、前川に愛らしい笑顔を向けて、ちょっといいよどみながら、新子の耳に口を寄せ、
「それで、お姉さまに、お小遣を頂きに来たの。お小遣じゃないわ。二日間のお給料としてでもいいわ。」と、前川にも聞えるように囁いた。新子は、苦笑しながら、
「もうそんな……」といいながら、五円札を出してやると、わるびれもせず、ハンドバッグをパチンと聞けて、中に入れて、今度は前川の方へ向いた。
「晩に、またいらっしゃるでしょう。」
「いや、晩には来られません。」
「いけないわ。嘘をおつきになっちゃ、昨夜《ゆうべ》私とちゃんとお約束なすったのに……」長い睫毛《まつげ》を、しばたたきながら、詰った。
「ご免なさい。今日は、都合がわるいから、改めて約束の仕直しをしましょう。明日きっと来て、あなたのサービスぶりを拝見いたします。」と、やさしくいうと、すぐそれに甘えて、
「じゃ、もうお帰りになるの。」と、訊いた。
「ええ、僕ノウ・ハットだから、会社へ、帽子を取りに行かなければ……」
「あら、帽子なんかいいじゃありませんか。今晩、いらっしゃらない罰に、これから銀座で何かご馳走して下さらない。私、あわててお家で、何も喰べて来なかったの。お腹、ペコペコなの。ねえ、お姉さまも、一しょにお出かけになるでしょう。」
「何を云っているの。前川さんにご迷惑なことを云っちゃ。」
美和子が、前川に対して、あまりに無遠慮なので、新子が真面目な表情をしてたしなめると、美和子はケロリとして、
「お姉さまは、前川さんと歩くのおいや? 何とか云われやしないかと、心配なんでしょう。私は、平気だわ。私は、前川さんと一しょに歩いたって、伯父さんかパパのようにしか見えないんだもの。ね、そうじゃありません?」新子は、不愉快になってだまったが、前川は冗談に、
「パパは、ひどいでしょう。」と、抗議すると、
「だって、美和子の覚えているパパは、前川さんくらいだわ。ねえ、お姉さま。」と、姉の気持などおかまいなしに同意を求めた。
四
新子は、ますます不機嫌になって、
「そんなご迷惑なことを云わないで、早くカットにいらっしゃい。熊の子みたいな頭をして……」と、美和子を追い立てにかかったが、美和子は立ち上ろうとはせず、
「独りで、何か喰べるくらい、つまんないことないわ。お姉さま、一しょに行ってよ。」と、ねだるのを、前川は、取りなして、
「じゃ、僕も、会社へ帰る途《みち》だし、昨日《きのう》サービスしてもらったお礼に、ちょっとつき合いましょう。」と、前川は立ち上った。そうした前川の親切気を妨げる手もないので、新子はだまっていた。
「ああ! 嬉しい。」美和子は、もう馴々と、前川の側《そば》へ立ち寄っていた。新子は、妙に胸騒ぎを感ぜずにはいられなかった。
美和子の心は、まるで水銀のようである。美沢の美貌と芸術家であることに魅せられて、フワフワと恋愛したように、今度は前川のありあまる物質を背景とした中年の紳士姿に、どう影響されるかもしれたものではなかった。
「美和子ちゃん。貴女、速達が来ていたの、急用じゃないの?」と、美沢のことを思い起させようとしたが、
「あれは、何でもないの。」と、あっさり答えて、
「じゃ、お姉さまは、いらっしゃらないのね。じゃ、出かけましょうか。」と、前川を促した。
「じゃ、また……」と、挨拶して、美和子とともに出かけようとする前川に、
「お転婆で、わがままで、ほんとうに困るんですよ。どうぞ、甘やかして下さらないように。」
と、云うと、前川は新子の言葉を、姉としての謙遜としか解さないらしく、
「いや、なかなか明朗なお嬢さんですよ。」と、微笑しながら、美和子の後を追うて降りて行った。
前川さんが、まさかまだお乳の香《におい》のとれない美和子などにと思っても、子供ながらに一くせも二くせもある妹だけにいやだった。といって自分も一しょについて行くことは、はしたない気がして……。もっとも、美沢の場合にだって、何も云う権利のない自分であるから、前川氏の行動に対して文句を云えるはずもなく――いな、心をうごかすはずでもないのであるが、何となくやるせなく不安になるのをどうすることも出来なかった。前川が置いて行ったカナリヤの籠に面してぼんやり立っているうちに、なぜかしら寂しくなって、新子はぼんやりと涙ぐんでいた。
五
二人ぎりで、鋪道を歩いて行くと、さすがに美和子は話がないらしく、カツカツとハイヒールの靴音を立てて、おとなしく一歩後からついて来た。
快活で、こだわりのない、こんな妹が新子にあることは、いろいろ好都合だと思った。第一、この妹にねだられるのを口実に、毎日スワンへ通うことだっておかしくないし……。
この間中から、新子がお召の着物に、ハイカラな縞の博多帯ばかりをしめているのが気になっていた。よく似合うし、趣味も悪くはないが、あまり同じものをつづけているので……。何か新しい着物を贈りたい、と思いながら機会がなかったが、今日妹と歩くのは好都合だ。妹に何か買ってやるのを、キッカケに、新子に新しい着物を買おう、そうすれば自然でいいと、万事綺麗事好みの前川らしい考えが、胸の中に浮んで来た。
「お腹とても空いているのですか。」と、後へ微笑《ほほえ》みかけながら訊くと、
「ええ、ペコペコよ。」
「百貨店《デパート》の食堂なんか嫌いですか。」と云うと、けげんな顔で、
「百貨店《デパート》に、用事がおありんなるの?」
「ちょっと、松屋で買いたいものがあるんですが、貴女のご意見も伺った方が、いいかもしれないので、一しょに行って頂こうかと……」と云うと、早くも悟って、
「ああ、解ったわ。お姉さまに、何か買ってお上げになるんでしょう。いいわ。私が見立てるわ。その代り、私にも何か買って下さるんでしょう?」
「もちろん、そうなるでしょうな。」前川も、幾分ふざけて云った。
松屋まで歩くのは、ちょっと辛かったので、そこの駐車場から、円タクに乗った。
「買物を先にしても、大丈夫ですか。お腹が空いて倒れることなんかないですか。」と云うと、
「もう、お腹の空いていることなんか、忘れちゃったわ。何を買って頂こうかと、考えているのよ。もう、ご飯なんか、どうだっていいわ。私、ひとりで後で頂いてもいいことよ。」と、たちまち発揮する勝手坊主に、前川は苦笑しながら、
「貴女は、どんなものがいいんでしょうか。」と訊くと、美和子は小さい頭をかしげ、
「美和子、欲しいもの、いろいろあるのよ。でも、デパートなんかには、ないかもしれないわ。ローヤルで、サンダル・シューズをあ
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