うだった。妙子と呼ぶことにした。
 案内状は、主に準之助氏の知人関係に配られた。
 二十日、いよいよ開業の日である。美和子が、(お姉さま、今日だけは、わたし、とにかく手伝ってあげるわ)といってくれたのが、頼もしく思えたほど、心配だった。
 四時に店を開けてみると、最初一時間半ばかりは、お客がなかったが、六時近くになると、珍しいもの好きな銀座マンが一人はいり、二人はいり、ソファと椅子とに坐り切れず、予備の小椅子まで持ち出す盛況であった。
 手伝いに来ただけの美和子が、一番大車輪で、お客の註文など、一つも間違えず、
「お新規さんよ。キング・ジョージが二つ、それからソーセージが二つ。」などと、よし子や妙子を使い廻しての奮闘ぶりに、新子はなるほど、妹が自信ありげに、手伝いたがるはずだと、スタンドの陰で、微笑しつづけていた。
 それに、ベビー・エロと云ってもよい、美和子の白いスカートに黄色い腕なしのブラウスをつけた姿は、あらゆるお客の注視の的となり、いつの間に名を訊かれたのか教えたのか、
「美和子さん。美和子さん。」と、ひっぱりだこになっていた。
 新子は、美和子の持っている性的魅力の強さに驚きながら、(妹を使えば、お店の繁昌は疑いないけれど、でも使うのはいやだし……)と、迷っていた。
 準之助氏は、もし都合がつけば開店の景気を見に来るといっていたが、とうとう来ず、九時近くになって、電話がかかって来た。
「どうです、景気は?」
 新子は、わくわく胸を躍らせながら、
「たいへんな景気よ。ちょっといらっしゃらないこと?」
「もう、家へ帰ってしまったのです。」
「まあ、お家から?」
「はあ。」
「つまんないわ。」
 新子は、物足りない気がして、ついそんなはすっぱな言葉づかいをしてしまった。こうして家を持たしてもらうと、ただ出資者というものに対する感情以外のものが、もう胸の中に出来上っているのであった。

        三

 上々吉の開業日の、あくる日だった。
 まだ暮れて間のない七時頃に、美和子はお友達を五人連れて、勢いよく乗り込んで来た。その中に、相川さんというお嬢さんは、新子も一、二度顔を見たことのある美和子の親友だったが、他の四人は見知らぬ青年達で、美和子のいわゆる男友達《ボーイ・フレンド》らしく、美和子のその青年達に対する態度は、傍若無人であった。
「ねえ。お姉さま、このくらいお客様を連れてくれば、大したものでしょう。みんなお酒飲みを集めたのよ。それに、勘定少し高く取っても大丈夫よ。特に、この人はねえ……」と、美和子は、背の高い、眼鏡をかけている青年の肩に、馴々と手をかけて、
「大村さんという、大ブルジョアなの。」と、無遠慮に云うので、初めてバーのマダムの如く、愛想のよい笑いを浮べながらも、心の中では……妹がこんなに誰彼なしに、媚態を見せても大丈夫なのかしらと、恨みを忘れて、美沢のためにハラハラするのであった。
 皆が、お店の一角に、席を占めると、美和子はビクトロラの傍に飛んで行って、レコード・ボックスから、「ボレロ」を取り出してかけた。店の中は急にロマンチックな気分になり、新子までが妹の大胆な言動に、辟易《へきえき》しながら、やはり楽しい気持になって行った。男達の前には、ビールが、美和子と相川さんの前には、バーテンの創案の、アルコール分の少いアヴェック・モア・カクテールが運ばれた。
「美和ちゃんのお姉さんのために、チェリオ!」青年の一人が、そう云って、みんなが一斉に盃を拳げた。
「美和子のためにも、チェリオ!」美和子は、自分で盃をあげた。
「美和子ちゃんも、何かお祝いすることがあるのかい。」と、青年の一人が云った。
「大有りさ。美和子、今に結婚するかもしれないのよ。」
「おや。誰とさ。」
「誰とだって、いいじゃないか。今に分るさ。」美和子は、男の子のような口をきいていた。
 だんだん客が、立てこんで来た。
 八時近く前川が、友達二人と、客のようにすまして、はいって来た。そして、音楽や、若々しい笑い声や、酒の香りに、濁りかすみながら、陽気な空気の渦巻いている容子に、満悦しながら、美和子達のグループのすぐ隣に、腰をおろした。
 新子は、前川がはいって来たのを、目ざとく見つけたが、ちょうど他の客に、サービスしていたし、よし子も妙子も、物を運んでいたので、誰もすぐには註文を訊きに行かなかった。
 それを知ると、美和子は、お友達に、
「美和子の女給《ウェイトレス》ぶりを、ちょっと見せるわよ。」と耳語すると、たちまち自分の座席から立ち上って、前川の卓子《テーブル》に行き、
「いらっしゃいませ。何をお持ちしましょうか?」と、訊いた。
「ウィスキイ。オールド・パーがいいね。」
「皆さん?」
「ああ。」
 前川は、こんな可愛い少女を、いつの間に新子が見つけたのだろうと、驚きながら答えた。

        四

(ああ)と応じた前川の言葉に、人言《ひとこと》を真似る鳥のように、美和子も、
「ああ。」短く同じように領いて、ジッと見ていたが、いきなり親しげに眸を輝かせると、
「分ったわ。貴君《あなた》ですのね。」と、云った。前川は驚いて、首をかしげ、
「貴君ですのねって、何です?」訊き返した。
「いいの。いいの。何でもないの。」と、女学生風な親しげな物云いを残して、バー・スタンドの方へかけて行ってしまった。
「可愛い子ですね。少し酔っていますね。」
「そうだね。」前川の連れは、そんなことを呟き合っていた。
 新子は、前川がどんな種類の友達と一しょに来ているか分らないし、――もっとも、ここへ来る以上、自分が挨拶に行って構わないだろうけれど、なるべくなら、普通の客のように扱うのがいいだろうと、いつの間にか日陰の女がするような心配を、している自分が、淋しく思われた。それにしても、帝劇で前川をチラリと見て知っているはずの美和子が、連れも構わず、下らないことを云い出しはしないかと不安になった。
 美和子は、バーテンに前川の註文を通すと、姉の傍に飛んで来て、耳の後《うしろ》で、
「お姉さまのあの人来ているわよ。」と、いや[#「いや」に傍点]な云い方をするのを、
「何を云ってるの。貴女《あなた》、お連れがあるから、つまらないこと云っちゃダメよ。」と、たしなめると、
「心得ていてよ、私、妹だとも云わないわねえ。女給のような顔しているわよ。ステキ、ステキ!」新子が、重ねて注意をしようと思う間に、美和子はもう、バーテンからウィスキイの壜とリキュールと落花生とをのせた銀盆を、すまして前川の席へ運んで行った。
 このような、男性を相手の「酒場」になぞ持って来ると、美和子はいよいよ天成のコケットだった。幼い時から、お伽話と実際の差別がつかなかったり、人前に立ってワイワイもてはやされると、いよいよ有頂天になる性質は、たちまちその本領を発揮して、人に対する奉仕というようなものでなく、彼女自身がその空気の中に溶け込んで、浮《うか》れ出してしまうのであった。彼女の楽しさが即ち男を喜ばす言葉や仕草となって現われるのであった。前川が新子の妹だとは、到底気がつかないほど、彼女の女給ぶりは板に付いていた。
「君幾つ!」
「十八……」
「何て云うの――」
「まだ名前、ついてないの。多分ミミということになるでしょう。」
「本当の名は……」
「只《ただ》では教えない! ここイかけさしてね。」
 独りでかけている前川の隣に、ぴったり寄り添って腰をかけると、そっと自分の連れのいる隣の席へ、(どうです?)というような意味のこもったウィンクを送った。

        五

 いきなり、脇へ腰をかけられた前川も、二人の連れも妖精じみて、美しい少女へ、マンジリともしない眼を向けていた。
 美和子ぐらいの年頃の、まだ場所馴れしない娘であったなら、こうも男達の視線を、ジカに自分の上に集められたら、気怯《きおく》れしてはにかんでしまうに違いない。美和子も、少し心臓の鼓動がはずんでいるが、かの女はそうした自分の気持を、速やかに言葉に表せる、開放的な性質を持っている。
「いや、そんなにご覧になっちゃ。テレてしまうわ。」と、ウィスキイの注がれたリキュールを、前川の方へ、押しすすめた。
 前川は、一口なめるように舌の上へ落すと、喉が乾いていたところなので、カーッと味の解らないほど、口全体が熱くなった。
「炭酸水をもらおうかな。」
「はい。」美和子は、側に来かかったよし子に、
「ウィルキンソンにコップが三つ、ぶっかきを入れて、持って来て頂戴!」と、いった。やがて、よし子が運んで来ると、
「貴女もいらっしゃいね。」といいながら、
「私も十六ミリだし、貴女も小型だもの、ここへ二人かけられてよ。」と身体全体で、前川をグッと押した。無遠慮で乱暴だが、しかし色っぽく艶《なま》めいた仕草だった。前川は、ウィスキイと炭酸水とを別々に、口に運びながら、
「君達二人とも、初めて?」と訊ねた。よし子は、温順《おとな》しく眼を伏せて肯《うなず》いたが、美和子は、
「そうよ。ここのマダムも初めてよ。お店も新しい、ホラ唄にあるじゃないの……」
「唄にあるって……」前川は、陶然とした気持に、揺られながら、訊き返した。
「ええ、船は新造で、船頭さんは若い、河は新川、初上りって……」
「へえ――、しゃれた唄を知っているんですね。」と、これは前川よりやや年若の連れの人が、それまでマジマジと美和子を眺めていたのが、初めて口をきいた。
「ええ、唄なら大抵知っているわよ。音楽家よ、わたしは……」
「何か歌って下さいよ。」
「いやよ。私『歌わせてよ』じゃないわよ。まだ、お酔いになっていないのに、聴かせるものですか。」
「じゃ、酔ったらきかせてくれますか。」
「ええ、そして毎晩、お店へ来て下さるというお約束をして下さらなければ……つまり、どうぞゴヒイキにということなのよ、分って……」と、冗談ともつかず、真面目ともつかず、美和子はペコリと頭を下げた。

        六

 いかにも、あどけない少女らしく見えていて、男心を捕えるのに妙を得て、奔放自在、しかもどっかに才気の閃きを見せて艶冶《えんや》である、こんな少女を、一体どこで見つけて来たのだろうと、前川は感嘆しながら、心の底まで楽しくなっていた。二人の連れの一人が、前川を先生と呼ぶのを早くも聞き覚えて、
「ねえ。先生、グウ、チョキ、パッをしない?」と、可愛い握り拳を出した。
 子供のやる気合ゲームで、相手がグウを出せと云ったら、それに誘われないように、チョキかパッを出さねばならない。
 前川は、小太郎や祥子の相手をさせられているだけに、
「グウ、キョキ、パッよろしい、君なんか一ひねり……」と、自信を以《もっ》て始めたが、アッサリ美和子に負けてしまった。
「じゃ、僕と……」連れの一人が代ったが、これは前川より、もっと手がるに片づけられてしまった。
「じゃ、この次、三回勝のジャンケン。三回つづけて勝てばいいの。」と、別のジャンケン遊びを始めたが、これも美和子は、可愛いかけ声に拘《かかわ》らず、どこか気合がすぐれていて、相手の気を釣って、巧みに勝ってしまった。
 その時、新子がサービスしていた客が帰ったので、ようやく、前川のところへ来て、挨拶したが、みんなは美和子とたわいなく遊ぶのに夢中であった。美和子は、それと気づくと、芝居気たっぷりに、「マダムここへおかけにならない?」と、わざと席を立って、笑いもせずに、新子の袂《たもと》をとらえて、坐らせようとした。
「この人は、とてもいい子だね。」と、前川は楽しそうな眼で、新子を見上げた。新子は、前川が、美和子が、自分の妹であると知ったら、どんな顔をするだろうと、苦笑せずにいられなかった。美和子は、前川を姉に委せると、自分はまたお友達のグループにはいって、そこで賑やかにさわぎ出していた。
 前川の一行が、しばらくしてから[#「しばらくしてから」は底本では「しばらしくてから」]勘定をすませて、帰りかけると、美和子は後を追うて、前川の背後にすがりつきながら、
「ね
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