いですけれど、あれでよくいろんなことに、気がついているんですし、それに音楽なんかよく解るし……いっそ、お願いして、美沢さんに貰って頂いたら、どう?」と、云った。
新子の母は、(貴女は、それでいいの?)と、云うように、眼顔で、パチパチしばたたいた。
四
新子は、勇敢に事件に直面して、冷静に己れを持した。そのために、ヒステリックにもならなければ犠牲主義も振りまわさなかった。美沢をアッと云う間に美和子に取られてしまったことも、考えれば今までの新子の生涯にいく度かあったことと、大した相違はなかったのである。
綺麗な着物は、姉圭子に、新子はいつも、そのお古を、大きい方のお菓子は、それは、いつでも妹の美和子にあたえられるにきまっていた。幼い時代が過ぎて、大きいお菓子が、愛人になって、それを妹に渡してやっただけのことである。それっきりの話である。こうした我慢には、好い加減馴らされている新子であった。東京下町の小学生が唄いはやす(真中まぐそ[#「まぐそ」に傍点]、はさんですてろ)と、いうのが、南條家の新子の場合なのである。姉は年上なるがゆえに威張り、妹は年下なるが故に甘やかされる。
とは云え、美沢に対しては、よい気持はしなかった。余りにも、たやすく見替えられたわれとわが身が憐れまれ、その打撃に無神経になるまでには、相当長い時日がかかると、覚悟しなければならなかった。覚悟の土台を築くために、自分で自分の傷を癒《なお》すために、新子はいよいよ決心した。
もう母にも相談しなかった。新子は、簡単に、前川氏へ、
[#ここから1字下げ]
先日は失礼致しました。帰宅致しまして、いろいろと、思案致しました。厚かましく、万事おすがり申すことに決心致しました。何分よろしくお取計らい下さいませ。
妹は、この秋に、結婚致すかもしれません。私も自分本位の生活が致しとう存じます。私は「酒場」の名を、いろいろ考えております。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]新子
その返事は、その翌日、速《すみや》かにもたらされた。
[#ここから1字下げ]
――お手紙拝見、先日お別れしてから、知人に、適当な場所や家を探してもらったりしておりました。銀座裏に、芸妓《げいしゃ》家の売家があること、……しかし、貴女からのご返事があるまでは、空《くう》なものでありましたが、お手紙ですっかり勇み立ち、僕もちょっと見て参りました。場所もなかなかよろしく、隣りは煙草店《たばこみせ》、建て方ひとつで、気持のよい「酒場」になることと思います。あまりこっちに長く居りまして、具合が悪いので、明後日軽井沢の方へ参るつもり、明日午後は暇ですから、よろしければその家見にいらっしゃいませんか。午後一時、省線四谷駅前で、お待ちうけします。
いらっしゃれれば、別にご返事には及びません。もしご都合が悪ければ、ちょっと電話でお知らせ下さい。僕が、昨夜考えた「酒場」の名、バー・スワン、いかが、……妹さんご縁組のよし、貴女のご辛労たいへんでしょう。では、お目もじの上、いろいろと。失礼。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]準之助
投函して、二時間くらいで来た速達のような手紙であった。
新子は、その手紙を見ると、その日の内にも、準之助氏に会いたいように思った。
五
万事を、準之助氏に頼んで、八月は何ということなしに、暮してしまった。
九月も、半ばになった。
空は、一面にどんよりとした層雲で包まれているのに、街の裾から、カッと落日の光がさし込んで、暗い通りに、建物の倒影が、クッキリ落ち、行きずりの人の顔など、眩しいほど、鮮《あざやか》に見える。バサバサと葉の茂った街路樹に、生あたたかい風が、ゆるゆると当る、季節|境《ざかい》の荒模様の夕暮であった。
「家が落成しましたから、見にいらっしゃい。六時頃なら、僕も行っています。」と、今朝準之助氏から電話がかかって来た。
銀座の表通りから二つ目の裏通りの新橋寄りで、芸妓屋が二、三軒並んでいる場所で、うり貸家の紙が、斜《ななめ》に貼られてあった家を、(ここですよ)と、一度見せてもらったぎり、落成するまでは見に来ないで下さい、という準之助氏の言葉を、堅く守った故、どんな家になっているか、少しも想像がつかなかった。ハッキリ覚えていた場所を、円タクの運転手に教えたが、そこへ行ってみると、危く通りすぎそうになって、
「あ、ここ、ここ。ここだったわ。」と、思わずはずんだ声を上げてしまった。
周囲が周囲だけに、モダンな表構えの家が、劃然《かくぜん》と目に立っていた。見るからに、南欧風の明るく小ぢんまりした構えで、扉は何か作りつけているらしく、開け放たれて、紺の半纏《はんてん》を着た男が、ばしょう[#「ばしょう」に傍点]の鉢植の蔭で、チラチラ動いていた。よくも短日月の内に、こんな変装が出来るものだと思われた。
滑るような床張りの中央に、古物らしいイタリイ製の水盤が置かれて、低いゆったりしたソファに椅子が、木製の美術的な小卓をかこんで巧みに配置され、白い壁にとりつけてある目を楽しませるだけの飾棚や、壁にかかっている見事な織物や金属製の飾物、どの一つにも豊かな詩趣と、驚くばかりの贅《ぜい》が、こらされていた。つき当りのスタンドの上の壁の、水彩画の中に、スワンが二羽、長い頸を延ばしていた。
「バー・スワン」準之助の明るい気持が、新子の眼の前に躍り出した。
「バーテンの後《うしろ》から、二階のお部屋へ行かれますよ。」大工の棟梁らしい男が新子に話しかけた。
バー・スタンドの後に、四畳半の部屋があり、そこから二階へ行く狭い階段がある。上って行くと、こぢんまりした一室が、居心地よく装飾され、スプリングの心地よいソファ・ベッドや、三面鏡や、簡単な衣裳箪笥が置かれていた。その行き届いた快さに、新子は茫然として立っていた。
六
その時階下から、
「新子さん、二階ですか。」と、久しぶりに聞く、なつかしい準之助の声がした。
「はア。下へ参ります。」いそいそと、思わず声も動作も、弾み上って、親しさと感謝で、明るく相好を崩した新子が、階段をかけ降りて、店の間《ま》に立っている準之助の側《そば》へ、近々と寄った。
「しばらく。どうです、少しはお気に召しましたか。」
「まあ、こんなに何から何まで、して頂いて……相すみません、軽井沢からは、いつお帰りになりました?」
「四、五日前ですよ。毎日ここへ寄っていたんですが、すっかり仕上ってからと思って、お電話しなかったんです。」
イの一番のお客のように、二人は卓をはさんで、ソファに腰をおろした。準之助は大工に、
「電話は、やっぱり奥の方がいいね。四畳半の上り口の壁にとりつけてもらいたい。」
「へえ――。板だけでも、とりつけておきましょう。」
「まあ、電話まで……」新子は、包みきれぬうれしさで、笑顔でうつむいていた。下手なお礼をいうより、黙っていたかった。(大恩は謝せず)という古語がある。こんなに何から何まで、してもらっては、(ありがとう)などいう言葉を、何百遍くりかえしても足りないと、新子は思った。
「バーテンダーは、頼んでおきましたよ。フランスにしばらくいた男で、カクテルには、自慢の腕を持っています。偏屈ですけれど、人間はごく正直な男ですから、洋酒の仕入れなど、一切|委《まか》せたらいいでしょう。貴女は、カウンターをやって、女給《ウェイトレス》は気持のいい少女を二人くらい傭ったらどうですか。」
「はア。」
「開業も、縁起のよい日がいいと思って、そんなことをよく知っている人に聞いたんですが、貴女は六白だから、今月は縁談金談はいいんです。十二日が大安でしたけれど、貴女の年には凶の日で、二十日の先勝がいいんですって……」
「まあ……そんなこと、お気になさいますの?」
「ははははあ。こういう水商売は、縁起をかついだ方が、いいのじゃありませんか。」準之助は、首をすくめて笑った。
「警察への届けなどは、こちらでやります。貴女は、明日でも新聞に広告して、貴女の気に入るような女給《ウェイトレス》を見つけて下さい。」
「はい。」新子は、長い言葉が出ないのであった。
「貴女、よくご覧になって足りないところがあったら、遠慮なく云って下さい。バーテンダーになる鈴木という男に万事頼んでおきましたから、大抵大丈夫でしょうけれど……表の看板のネオン・ライトは薄紫がよくはありませんか。」
「はア……」新子は、危うく涙になりかけるほど、有頂天な嬉しさに浸っていた。
[#改ページ]
義勇女給
一
もう、母や姉妹《きょうだい》に、少くとも母には、だまっているわけには行かなかった。
しかし、故《わけ》もないのに、前川氏に立派な店を持たしてもらったといったら、母は理解できずに、不安に思うだろうし、わがままな姉は、またいい気になって、前川氏にどんなことを頼むか分らないと思ったから、ただ前川氏に頼まれて「店の監督」になったといっておけばいいと思った。
綾子夫人も、とっくに帰京しているので、前川氏は妻の手前早く帰ってしまったので、新子も家へ帰ったのは、七時半頃だった。母一人のところで話せばいいものを、新しい生活に入る嬉しさは、おさえ切れず、つい美和子の居るところで、話してしまった。
「まあ、その酒場《バー》、前川さんが、おやりになるの?」と、美和子が訊いた。
「ええ、お道楽でおやりになるんですって。」
「素敵なんでしょうね。」
「ええ、とても気持のいい家よ。」
「新聞広告なんかしたって、なかなか美人なんて来ないわよ。私のお友達に、適当なのがあるわ、つれて来てあげるわ。」
新子は、美和子を見ながら、妹も満更役に立たないこともないと思った。美和子のお友達だったら、女学校は出ているし、モダンな娘だろうと思った。
「だって、貴女《あなた》のお仲間、そんなところで働くような境遇の人いないじゃないの?」
「いるわ、一人。働きたい働きたいっていっているの。もう先《せん》、仲のよかった人よ。ちょっと、可愛い人よ。」
「そうお。じゃ、早速連れて来て見せてくれない。」と、美和子の側《そば》へ坐ると、美和子も興奮しているらしく、美しい鳶《とび》のように、眼をかがやかしていた。
「お姉様ア、美和子も、手伝わしてよ。ねえ、いいでしょう。私、知合いのボーイを沢山、引っぱって来るわ。」新子は、初め美和子が冗談を云っているのかと思ったが、彼女はますます双眸を輝かして、
「美和子なら、いいじゃないの。お互に監督し合えばいいわ。前川さんは、スマートで、お金持なんでしょう。お姉さん、一人じゃ危いわ。」
「何を云っているの! 貴女は、美沢さんと結婚するのじゃないの。」
「そんなに、早く結婚なんかしないわ。つまんないもの。それに、美沢さんの月収、いくらもないのよ。美和子のお小遣いくらい自分で稼げばうれしいわ。ねえ、美和子を使ってよ。明日《あした》一しょに、お店へ行くわ。」新子は、やはり美和子には、後で話せばよかったと思った。
「いやですよ。およしなさい。」
「ほんとうに、美沢さんのお母さんも、どうおっしゃるか分らないし……」傍《そば》から、母が口を出した。
「とにかく、開業の時お友達をつれて、行ってみるわ。行ってみるだけなら、いいでしょう。」と、ずるそうに笑った。
二
いくらお膳立が整い、箸を取るばかりになっているとはいえ、無経験な仕事であるだけに、開業日が迫ると共に、足の地に着かない、わくわくした落着かない気持がした。
二、三日して、美和子が、お友達の杉田よし子という少女を連れて来た。顔立のいいというわけではなかったが、色白で骨細《ほねぼそ》で、誰からも嫌われはしないといった型の、いかにも酒場《バー》の女給に、ふさわしい娘であった。
準之助氏が、以前会社に使っていたという給仕上りの娘を、一人世話してくれた。色の浅黒いチンマリかわいい顔立で、身体もガッチリしていて、いかにも働けそ
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