。」新子は、すかさず訊いた。
「私はね……云うのよしとこうっと……」
「ずるい! 仰《お》っしゃいな。」と、下から見上げる姉の眼に、かち合うと、すぐあらぬ方に、視線を外《そら》して、
「あの人ったら、とても慌てて、……私達は、切符を買ってはいるところ、お姉さま達は出るところでしょう。あの人雨に濡れるのに、大急ぎで外へ飛び出して、石柱にぴったりと家守《やもり》のようにくっついて、あの自動車をいつまでも恨めしそうに見送っていたわ。それで、くさっちゃって、もう活動なんか見るのよそうというのよ。……美沢さん、やっぱりお姉さんが、随分好きだったのね。」大きな上眼で、天井を見上げたまんま、美和子の言葉を聴いていた新子の口尻に、びくっと力が入った。瞳の色は、飽くまで冷たかったが、微《かす》かにせまった眉や、顎のあたり、胸底の懊悩《おうのう》をじっと押しこらえている感じが、歴々《ありあり》と浮び上った。
 姉のそうした表情を、妹は露ほども気がつかず、
「直感ね。私は、今日美沢さんと、一しょに出かける時から、何となくお姉さまに逢うような、逢ったら困るような気がしたのよ。でも、パッタリ出会《でくわ》さなかったし、……それにお姉さまも一人じゃなかったでしょう。何だか、くすぐったいような、妙にサバサバしたような、安心したような気持になっちまって、でも活動は一時間ぐらいしか見なかったのよ。それから、銀座へ出てフロリダへ廻ったの。だって、美沢さん、滅茶滅茶に騒ぎたいというんだもの。……」

        五

 新子が、黙って聴いているので美和子もさすがに、気がさしたのか、ちょっとの間|口《くち》を閉《とざ》していたが、やがてしんみりと、
「美沢さん、お姉さんがよっぽど好きだったのね。だからつまりヤケになって騒ぎ廻ったわけよ。それに、私も悪いことしていたのよ。お姉さまが、軽井沢から帰ったことを、あの人に全然だまっていたのよ。だから、あの人帝劇でお姉さんを見つけたとき、すっかりびっくりしてしまったのよ。フロリダから、近所のバーへ行ったら、美沢さん、ハイボールを二杯も、飲むのよ。そして酔っぱらって、新子さんに、言伝《ことづて》があるというのよ……」
「何ていったの?……」小さく思わず、口に出して呟いた。
「僕は、新子さんの幸福も不幸も解りません、サヨナラって! 云ってくれと云うの。お姉さんをあきらめて、しまったらしいのよ。あの前川さんを、お姉さんの愛人かパトロンかと思ったらしいのよ。あの方とお姉さん、何でもないの?」
「うるさいわよ。」姉は、つい険しい声で、きめつけると、顔をそむけた。さすがの美和子も、姉によっぽど悪いと思ったらしく、手早く寝間着に着換えると、電燈を消して、床の中へはいってしまった。そして、しばらくすると、この大胆なる恋愛|行者《ぎょうじゃ》は、もうかすかな寝息を立てているのであった。
 考えまい考えまいとしても、頭の中に一杯拡がって来ることなら、いっそ考えて考えぬいて、疲れた時に眠ることにしようと、新子は眼さえパッチリ闇の中に、開けてしまった。
 前川氏とたった一度一しょに、シネマを見れば、美沢に見つけられて、美沢が美和子と一しょに遊ぶ口実にもなれば、美沢が自分を思いあきらめる最後のとどめ[#「とどめ」に傍点]になるなんて、何という馬鹿馬鹿しいことだろうと苦笑したいくらいだったが、しかし、それを美沢に会って弁解する必要も感じなかった……。
 自分が一家のためだと思ってしたことが、いたずらに姉の演劇熱をそそり、妹のわがままを増長させ……前川氏の家庭を騒がし、奥さまにイヤな目に会わされ……だから、今後も自分としてはあまり殊勝な心がけで行動するよりも、もっと大胆に……。奔放に、前川さんにおねがいして、いっそバーでも出してもらった方が……。
 バーを開くとしたならば(イザベル)、アンドレ・ジイドの小説の題でもつけようか。(サフォ)(エンマ)(クララ)(レオカディ)(マニュエラ)でも、人の名は粋だけれども、少し地味だし……。
 音楽の曲名をつけるとすると、
(グラナダ)(ダルダナス)(ラ・カンパネラ)(カプリース)あんまり華美で仰山な名はいやである。口ずさんで楽しい明朗な名がほしかった。(バー・アイリス)(バー・ミモザ)
 雨の音はいつか絶えていた。
 妹や美沢のことを考えると、とても不愉快だった。美しいバーの名前でも、考えている方がせめてもの慰めだった。
[#改ページ]

  バー・スワン




        一

 溝板を飛んで来る板裏草履の音がして、勢いよく格子戸が開くと、
「南條さん、お電話ですよ。」と、酒屋の小僧さんの声が、家の中を、つん抜けた。
 食卓をかこんでいた姉妹《きょうだい》は、一様に視線を合せたが、新子は、前川氏からだろうと思うと、大いそぎで立ち上ろうとすると、美和子が、
「あたしよ。」と、厳しく云うと、早くも茶の間を横ッ飛びに飛んで、駈けだして行った。
 思えば、前川氏に呼出しの電話番号は、教えてなかったものをと、新子は、われ知らず頬を染めて、また箸を取りあげた。
 間もなく、
「ゼャーズ、ア、ランプ。シャイニング、ブライト、イン、ア、キャビン。イン、ザ、ウィンドウ、イッツ、シャイニング、フォア、ミイ。アンド、アイ、ノウ、ザット、マイ、マザー、イズ、プレーイン……」と、鼻にかかった、甘ったるい声で、晴れ晴れと唄いながら、美和子が帰って来た。
「誰から……?」圭子と新子が、同時に訊いた。
「お友達……フォア、ザ、ボーイ、シー、イズ、ロンギイン、ツウ、シイー……」頭を、コクリコクリとうなずきながら、
「もう、ご飯食べないわよ。」と、二階へ上ってしまった。
 新子は、美沢からだったのだろうと、推察して、いよいよ目の前に、ぴたりと冷たい鉄扉を立て切られたような気持になった。後で、前川氏に、手紙で(「酒場」を、させて頂くことに決めました)と、書いてやろうと、咄嗟《とっさ》に思案しながら、自分の心の傷口をいたわった。
 美和子は、洋服を着て、化粧して降りて来ると、すぐ、新子の肩につかまって、
「お小遣いが欲しいの、……」と、いった。
「一ト月に、二十円で足らなくて……この頃は三十円くらい使うって、お母さまがこぼしていらしたわよ。使い過ぎるわよ。」
「使い過ぎるも、過ぎないもないわ。実際けちくさいンだもの。お友達に気がひけて仕方がないわ。」
「交際《つきあい》を、お断りすればいいじゃないの。昨夜《ゆうべ》シネマに行ったばかりだし、……」新子は、意地の悪い皮肉な顔をした。
「お姉様のひどい人、……いいわ、文無しだって、どうにかなるわよ。」と、ぷーんとして、くるりと後《うしろ》を向いてスタスタ行きかけるのを、母親が、
「この日盛りを、病気になってしまうよ。お止しなさい。」
「氷じゃあるまいし、とけやしないわ。」母にまで、八ツ当りして、靴を穿いているのに、新子は立って行って、
「お姉さんだって、お金ないのよ。これだけ、持っていらっしゃい。」と、出してやるのを、
「不要《いら》ないわ。」と、後向きのまんま、格子戸を締めて、駈け出してしまった。

        二

 その日の晩、十二時はとくに打ったのに、つけっぱなしの電燈の下に、蚊帳《かや》は広々と、美和子の寝床は空《から》であった。新子も、反感めいた気持で、空っぽの寝床に背を向けて、今夜は美和子の帰らない内に、どうでも寝つこうとし、寝つくために、何か下らない古雑誌でも読もうと、床を這《は》い出して、机の前にいざり寄ると、階下からしのびやかに、母が上って来る足音がした。
「おや、起きてるのかい。」と、近寄って来て、小声で、
「ねえ。どうしたんだろう美和子は。遅いったって、こんなことは今までにないんだけれど……」不安げに云った。
「大丈夫ですよ。」美和子のことなんか、誰が心配してやるものかと思った。
「だって、もう一時になるのよ。」新子には、連れが美沢だと判っているだけに、心配する気にはなれなかった。
「相川さんのところにでも行って、泊ってしまったんでしょう。」母への気安めを云った。
「だって、お友達は、みんな避暑に行ったと云って、こぼしていたんだが……」
「じゃ、避暑地へでも誘われたんじゃない。今日、出がけに、お小づかいを欲しがっていましたもの……」
「そうかしら。こんなに遅くなっちゃ、心当りへ電話をかけるわけにも行かないし……明日帰って来たら、よく訊き質《ただ》して叱ってやっておくれ。私の云うことはバカにしてちっとも聴かないんだから……」母親は、なおクドクドこぼしながら、階下《した》へ降りて行った。ガーゼの浴衣《ゆかた》を着た母の姿が、空気の抜けた風船のように、小さくあわれに見えて、気の毒であった。だが、新子はもう、美和子のことなど、心配してやる気はなかった。
 美和子は、思いきりよく美沢に呉れてやれ!
 そして、その心の傷を癒すためには、前川氏の好意に甘えて、風変りの新生活に、飛び込んでみよう。そのために、一家の生活が安定を得れば、母だって喜ぶに違いない。新子は、そう決心すると案外、気持が落着いて、眠ることが出来た。
 翌朝、眼がさめたのは、八時であった。美和子の床は、昨夜《ゆうべ》のままで、少しも乱れていなかった。午後になっても美和子は帰って来なかった。二時頃、母親が美和子の心配で、昨夜ろくろく寝なかったらしい表情で、二階へ上って来た。
「美沢さんのお母さんが、何か話があるといって、お見えになったのよ。お前は、よく知っているのだから、お前降りて来て、話をきいてくれないか。」新子は、また胸を衝かれるような気がしたが、すぐ落着いて、
「すぐ行くわ、少し綺麗になって……」と、毛の落ちかかっている生際《はえぎわ》へ、手をやった。

        三

 年寄同士のくどい挨拶の、頃を見計らって顔を出そうと、茶の間で、座敷の話を聴いていると、案に違わず、美和子は美沢と、昨夜一夜を過したらしい。
 新子の母は、思いがけないことばかりで、(まあ?)とか(おや!)とか、いう感嘆詞ばかりで答えている。
(新子は、長い間お交際《つきあい》していたようですが、美和子までが、そんなお交際していようとは、驚きましたね)と、あっけに取られている。
 美沢の母の話によると、美和子は昨夜《ゆうべ》美沢と一しょに、鎌倉か逗子かへ遊びに行って、今朝二人で美沢の家へ帰って来たが、(家へ帰ると叱られるから、小母さまが行って、話をつけてくれ!)と傍若無人の駄々を、こねているらしかった。
「新子!」と、母がその時呼んだので、新子は境の襖をあけて、上半身をのぞかせた。新子とは幾度も会ったことのある美沢の母は、愛想よく蒲団から、身を退《すさ》らせて、挨拶した。
「しばらく……軽井沢の方へ、おいでになって、いらしったそうで、少しおやせになりましたようで……」
「はア。」新子は、やさしく笑った。
「昨夜は、ご心配をおかけして、相すみません。美和子さんが、宅の方にいらっしゃいますのですよ。」
「あの人、ほんとうにわがままで、ご迷惑をおかけしてすみません。」新子は、もう覚悟していたことなので、素直に答えることが出来た。
「いいえ。」美沢の母は、ちょっと新子の心持を探《さぐ》るように、ジッと視線を合せて、新子の澄んだ静かな瞳にぶっつかると、安心したように、
「何ですか。こう、藪《やぶ》から棒のようなお話ですけれど、……若いもの同士で、あやまち[#「あやまち」に傍点]のありません内に、いっそ美和子さんを、私の方へいただきたいと思うんでございますけれど……」
「美和子でございますか。」美沢の母の言葉が終らない内に、新子の母が、びっくりして訊き返した。
「はア。昨夜なんぞも……」美沢の母は、ちょっと思い計るように、そこで止してしまって、新子に、
「貴女とも、一度よくご相談したいと、思ってはおりましたんでございますけれど……」そう云われて、新子は顔を真赤にしたが、しかし、しっかりした調子で、母へ、
「お母さん、美和ちゃん、子供みた
前へ 次へ
全43ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング