貴女がもし、あのまま、僕と会って下さらないとすれば、せめて縁につながるお姉さんの仕事でも、後援して貴女に対する自責の心を、少しでも慰めようと思っていたくらいです。」
「まあ!」新子の気持は、だんだん準之助氏の言葉によって慰撫され、甘やかされていた。
「今日はまるで、思いがけなかったのです。もう、あきらめて明日は、軽井沢へ行って、女房と替ろうと思っていたのです。だから、どんなにうれしかったか知れやしません。ねえ、新子さん。」初めて親しく名を呼んだ。
「何でございます。」
「貴女、何かご自身でやってみたいとはお考えになりませんか。」と、しんみり訊かれた。

        七

 デザートのハネデュウ・メロンをスプーンですくい上げながら、
(何かしませんか……)と、云ってくれた準之助氏の言葉を、新子はいぶかしげに、眼で訊き返した。
「お姉さんの外に、妹さんもおありになるんでしょう。」
「はア。」
「あのお姉さんは、生活なんて、てんで考えない方でしょうし、妹さんはどうですか……」
「………」新子の顔に、苦笑の影が浮びかけて消えた。
「妹さんも、頼りにならないのでしょうな。と、貴女独りで、働いていらっしっても、追《おっ》つかないじゃありませんか、何か、ご商売でもお始めになった方がいいじゃありませんか。」
「ほんとうに……」新子は、目を伏せて、こんな親切な人が母方の伯父ででもあったら、どんなに好都合だろうかと思った。
「でも、女のする商売って、どんなものがございましょうかしら、それに……」
(資本金も要りますし)と、いう言葉を、差し控えた。
「僕も、どんな商売が女性に向いていて、有利か研究したことはありませんが、まあ場所を撰《えら》んで『酒場《バー》』を出すか、『洋品店』をするか、洋裁の心得のある方だったら、婦人、子供洋服の店を持つとか……」
「………」
「婦人雑誌に、そんな記事が時々出ているようですが、レコードを売る店なんてどうでしょう。小ギレイで……」
 準之助氏は、好意ずくめのよい人であるし――またその好意の根に、一々野心のわだかまっているような性質の人でないことは、ハッキリ分っていても、この相談に乗って、この上ともこの人の世話になることは、自分で退引《のっぴき》ならぬ羽目に自分を追い込んで行くような気がした。
「因循|姑息《こそく》な地味な商売より、当りさえすれば儲けのある水商売の方が、やはり女の人には向いていると、云わなくてはいけないでしょうな。思い切って、『酒場《バー》』か『喫茶店』――この頃、銀座に流行《はや》っていますな――ああいうものを、やってみては如何《いかが》ですか。」
「はア。」
「もっとも、お始めになる意志が、おありになれば、僕がよく人に頼んで、場所も経営方法も調べさせておきましょう。」
「はア、でも、そんなにまで、お世話になることは、ございませんもの。何かまだ、私が働けるような口でも、ございましたら……」と、新子は婉曲に断った。
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  密会の如し




        一

 新子が、婉曲に断ろうとするのを、準之助氏はてんで受けつけず、
「いや、就職口を探せとおっしゃるのなら、僕はどうにでもして探しますが、しかし現在の女事務員の月給なんて、結局三、四十円ですからな。貴女《あなた》一人のお化粧代と交通費になるかならないかですからな。……もっとも、貴女お一人の小づかいさえあればとおっしゃるのなら、それで問題はありませんけれど……」
 そういわれてみると、その通りだった。結局特殊の技能を持っていない限り、女一人で働いて一家を支えようなどということは、妄想に近かった。
 新子が、伏目になって黙っていると、準之助氏は続けていった。
「お姉さんの演劇熱の後援も、僕は欣んでやりますよ。しかし、僕はその十倍も、百倍もの熱心さで、貴女の生活の後援がしたいんです。そして、貴女の生活を安定して、貴女に幸福になっていただきたいんです。でないと、僕は一生寝ざめがわるいですからな。」
「そんなに、お世話になる筋はございませんもの……今までだって、余分なことをして頂いたんですもの。」
「いや、筋がなければ、こちらでお願いしますから、そうさせて頂けませんか……」準之助氏の頬が、青年のそれのように、あかあかと輝いた。
「僕は、何かの意味で、僕の傍《そば》から貴女に離れて頂きたくないんですよ。貴女をお世話したため僕が貴女に、何かを求めやしないかというご心配なら、どうぞご無用にねがいたいのです……この間の夕立のときのことは、僕も全く発作的で、貴女にどうおわびしていいか……あの償いのためにでも、僕はあなたのために、どんなことでも致したいのです。その代り、このままで、路傍の人にだけはなって頂きたくないんです。」
 中年の男子の、胸の中に鬱積した思慕の熱情といったものが、ふつふつとして、たぎるのを聞く気がした。新子は、身体中が熱くなり、じっと坐っていられないようななやましさを感じた。
「ですから、どんな誓言でも、どんなお約束でも致しますから、僕に世話をさせて頂けませんか……」じっと、見つめられた眸の強さに、新子は眼をしばたたきながら、
「まあ……そんな心配なんか致しませんわ……心配しているのは、私自身の心ですわ。私、あまりお世話になっていると……」新子は、そこまでいって、食後のマスカットの一粒を、そっととり上げた。
「だから、お互に邪心なく、天空海闊に、お世話になったり、世話をしたりしようじゃありませんか……月も濁らず、水も濁らず……」
「そんなこと出来ませんわ。またいつどんな夕立が来るかも分らないんですもの。」と、新子は恥かしげに微笑した。

        二

「はははは。」準之助も、新子のユーモラスないい方に、うちとけて笑いながら、
「だから、お互に、これからどんな夕立にも、一しょに降り込められないよう、気をつければいいと思います。殊に僕は必ず慎みますよ。」と、心に誓うようにいった。
 額で、準之助氏の視線を受けながら新子は、だまって味わうように準之助氏の言葉を、聞いていた。
「僕の、前によく友人と行っていたクララという小さい酒場《バー》ですが、客がとても多いんですよ。二十三と二十の兄妹が、二人|限《ぎ》りで三千円ばかりの資本ではじめたというのですが、この頃なんぞ兄の方は金廻りがよくて、競馬などに行ってるという話……食物《くいもの》商売は確かにうまく行きさえすればいいんですよ。」
「はア……そのお話、私よく考えさせて頂きますわ。」
「ああ、それは、……僕は、貴女が、どんなことなさっても、前にも申しあげたように心安く援助させて頂きたいんですから、よくお母様ともご相談なすって……」と、そこで、準之助は、葉巻を出して、火を点じながら、
「コーヒは、あちらで頂きましょう。」と、云って、立ち上った。
 また、さっきの待合室のソファに、二人並んで腰をかけると、新子は一時間も食事に時間を費《ついや》したことに気がついて、
「今日は、会社の方は……?」と、訊ねた。
「僕はもう、今日は会社の方へは参りません。貴女、何かご用事でもおありになるんですか……?」と、訊ねかえして来た。
「いいえ。私は浪人でございますもの。」と、新子は、笑いながら云った。
「はははは、じゃア、もう少しご一緒に居て頂いても構いませんね。シネマでも見ましょうか。僕と一しょじゃいけませんか。」
「いいえ。どうぞ。」新子も、もうしばらく準之助氏の、やさしい言葉に慰められていたかった。
「どこがお好きなんですか……?」
「帝劇なんかで観るのが好きなんですけれど、……いま、何を演《や》っておりますかしら……?」
 と、云うと、準之助氏は、立って行って、ロビーの隅に置いてある、新聞の綴《とじ》こみを持って来ると、広告欄を開けて指を辿り始めた。
「『裏街』ってのを、演《や》っておりますよ。」
「あ、それは、たいへん評判の映画でございますわ。」
 新子は、一ト月前ぐらいに、予告で筋を知っている、可憐な、アメリカのお妾《めかけ》物語を、もう一度頭の中に浮ばせて、人知れず、胸をときめかせながら、
「それ、ご覧になります……?」と、われから誘うように、準之助氏を見上げた。

        三

 帝劇を出たときは、ちょっとの間、夕霽《ゆうばれ》にあがりそうに見えた空も、また雨は銀色の足繁く降り出して、準之助氏のラサールという、素晴らしく長い車台の車に送られて、四谷の家近く、だがなるべく近所の人の目にふれない所で、おろしてもらった時は、六時というのに冬の日の暮のように暗く、運転手が開いた蛇の目に、点滴の音が、さかんであった。
「ねえ、よくお考え下さって! 僕まだ四、五日は、こちらにいますから、どうか会社の方へ電話を……」と、やさしく云ってくれた準之助氏の言葉を耳の底に、走り去る自動車を見送っていた。
 一しょに居ると、頭のてっぺんから爪先までいたわりの限りをこめた、柔かく暖かいものに包まれているようで、相手の好意が、しみじみと有がたく感じられる。だが、それだけにどっか、気のつまる感じがして、
(お夕食もどうですか)と、云われたのに(家で待っておりますから――)と、云って、断ったのは一人になって考えたい心持もあったし、長く一しょにいてはズリ落ちて行くようになる自分の心を、引き止めたい気持もあった。
 姉も妹も居ない薄暗い家の中に、ぼんやり独りになると、なんとなく心が滅入り込んで行った。美沢に対する未練までが、心の中に残っていて、一度美沢にあって、美和子のことを思い切り詰《なじ》ってやりたい気持の湧く傍《そば》から、粋な酒場を開いて、浮《うか》れ男をあやつりながら、しかも道徳堅固に暮してみるのも面白かろうなどと、とり止めもない物思いがつづいた。
 どんな世話になっても、自分さえちゃんとしていれば、何をいい出す前川氏でもないことが、ハッキリ分ったが、しかし肝心の自分が、ちゃんとしておられるか、どうか。あの夕立の時だって……と、思うと今見たばかりの「裏街」の女主人公のことなどが、思い合わされ、正統な結婚以外の男女の間は、どんな純愛で、結び付いていようとも、結局悲しいものだと思わずにいられなかった。
 八時過ぎると、二階へ上って、床の上に身を横たえて竪樋《たてどい》を落ちる雨音を、さみしく聞いていると、美和子が明るい顔で帰って来た。
 何も見まい何も聞くまいと、薄い掛蒲団の下で、ジッと眼をつむって、寝入りばなを装っているのに、
「お姉さまア。眠っているの。ウソでしょう。お姉さまったら……」と、またしても気になる、からかい気味の言葉である。
「何よ。うるさい。少し気分がわるいんだから、静かにしてよ。」と、にべもなく、つっぱなして、眼をつむるのに、
「気分が悪いなんて、ごまかしても駄目よ。さっき、見ちゃったもの。いいところを!」と、いわれて思わず、眼を刮《みは》って、
「貴女も帝劇へ行っていたの?」と、語るに落ちた。

        四

 小さい机の端に、灰皿とも飾りとも付かずに、置いてある綺麗な小皿を、手元に下して、美和子はこの頃吸い覚えたらしい無器用な手付きで、チェリイの煙を、もくもくとただ吹き上げて、
「だって、随分目に立ったわよ。あんなブワブワとした珍しい自家用に、スマートな紳士と一しょに乗り込むんだもの。あの人、誰?」新子は、その話をさえぎって、
「美和ちゃん、貴女誰と帝劇に行っていたの?」と開き直って訊いた。すぐ(美沢にも見られたかしら!)と、ワクワクと、胸先に苦しさが来たからである。
「クライヴ・ブルックみたいじゃないの。あの人誰さ? お姉さまが云えば、美和子も云うけれど……」顧みて他を云うと、いった調子で、美和子は狡猾《こうかつ》らしく、姉の質問をそらして、自分の問いのみを主張した。
「あれ、前川さんよ。」新子は、妹を問いつめる必要上、覚悟をして、アッサリ云った。
「へえ――。前川さんって、あんなに素敵な人なの、驚いた――とても立派ね、……」
「貴女は、誰と行っていたの
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