立ちの殺気を含んでいた。
「何よ。」圭子は、あくまでシャアシャアと、眼元で茶化しにかかるのを押えて、
「お姉さんのすることは、まるで乞食か、泥棒のようだわ。」と、鋭く罵《ののし》った。
「何が……」と、あまりにひどい言葉づかいに、さすがの圭子も、色を変えて、白けかえった。
「乞食よりも、泥棒よりも、もっとひどいわ。泥棒だって、親姉妹のものなんかは、盗《と》りはしないと思うわ……お姉さまは……お姉さまは……」新子は、押えても湧こうとする悲憤の涙を、グッと呑み込みながら、
「お姉さまは、私がお母さまに送ったお金まで、無断で盗ったじゃありませんか。」と、云い切った。姉には、このくらい思い切って云わなければ通じないと思ったし、一方つもりつもった鬱憤が、一時に爆発したのであった。
 圭子は、思いがけなくも、自分の弱点を突かれると、普通の応対では敵《かな》わないと思ったらしく、たちまち不貞腐《ふてくさ》れて、眉一つ動かさず、(それがどうしたの?)と云うような顔をして、新子の視線を受けかえしていた。
「そして、あんな非常識極まる電報をよこして……私が、何をしに軽井沢へ行っていたと考えていたの。私は、あの電報を見ただけでも、腹が立ったわ。まるで、滅茶なんですもの。私は、すぐ断りの電報を打つつもりであったの。ところが、前川さんに、あの電報が来たことが分ってしまって、色々に云って下さったから、ついお姉さんの出鱈目《でたらめ》が成功したのよ。でも、あれだけで、もう沢山じゃないの。たった、半月かそこら、お世話になった前川さんに対して、あんなご恩になることだって、随分肩身が狭いじゃないの。それだのにこれ以上、お姉さんは、何をなさろうと思っていらっしゃるの。私に、前川さんの前で、顔も上げられないような、口も利けないような、恥かしい思いをしろと、おっしゃるの、お姉さんには、受けてはならない人の恩を受けるということが、どんなことだか分らないの!」圭子も、唇の血の気がなくなるほど、蒼くなりながら云い返した。
「分っていればこそ、貴女の代りにお礼に行ったじゃないの。」
「だったら、なぜ、お礼を云っただけで帰って来ないの、物ほしそうな顔をして、そんな大金を貰って来るの、まるで、泥棒猫が、投げてくれた魚の骨に味をしめて、ノコノコお座敷へ上り込んで行くような恰好じゃないの。図々しいにも程があってよ。」

        三

 新子は、憤《いきどお》りで身体が、熱くなっていた。今まで比較的に、平穏無事であったために、軌《きし》み合うことなしに過ぎた二人の性格の歯車が、今やカツカツと音を立てて触れ合っているのだった。なまじ、相手が肉親であるだけに、つい言葉も、ぞんざいになり、一旦云い出したとなると、真正面から遠慮会釈もなく、切り込む新子の太刀先《たちさき》を、あしらいかねて、圭子はタジタジとなったが、すぐ立ち直ると出鱈目な受太刀を、ふり廻し始めた。
「私が、前川さんから、いつ乞食みたいに、お金を頂いたと云うの……。貴女は、お金というものに対して、俗人根性を持っているから、そんなことを云うんだわ。前川さんは、演劇の愛好者だわ。その方が芸術のために、下さったお金は、浄財よ。それを頂くことなんか、恥でも何でもないわ。だから、私前川さんに、個人で頂くのではない。会として頂くと云ってお断りしておいたわ。だから、個人としての私が、恩に着ることはないし、まして私の妹である貴女が、眼に角を立てて、ワイワイ云うことではないわ。」
「おだまりなさい。下らないわ。前川さんは、私の姉としての貴女だから、会ったのよ。私の姉の貴女だから、お金を呉れたのよ。あの方、演劇愛好者でも何でもありゃしないわ。そんな、空論で私をゴマかそうとしても、駄目だわ。」
「貴女の云っていることの方が、よっぽど空論だわ。俗人の余計なおせっかいだわ。」
「私の云っていることが、おせっかいと思うのなら、私お姉さんを軽蔑するわ。お姉さんみたいのが、役者馬鹿と云うのだわ。昔の千両役者のように、お給金を沢山取っているのなら、お金の勘定も知らないような役者馬鹿も愛嬌よ、他人に迷惑がかからないんだから。お姉さんなんか、まだ役者になり切らない先に、役者馬鹿になられたら、傍《はた》の者がたまらないわ。私が送ったお金をゴマかすなんて辛抱するわ。私の迷惑になるようなお金を、他人様から貰って来ることだけは、かんにんしてもらいたいわ。……お金が、そんなに必要でしたら、私の知らない演劇愛好者から、いくらでもお貰いになるといいわ。前川さんからだけはよして頂戴ね。」
「………」
 姉は、すねて口をきかなかった。
 新子は、やや言葉を柔らげると、
「ね、返して来て頂戴! 家へ持って帰ったら、新子に叱られましたからと云って!」
「バカバカしい。あんたの指図なんか受けないわよ。」
 そう云うと、圭子はサッと、隣の部屋へ引き上げて、聞いていた境の襖をピシリと音を立てて閉ざした。

        四

 新子は、姉と云い争ってから、すぐにも前川氏を訪ねて詫を云い、そのついでに、今後は一切かまってくれないように、頼んでおかないと、姉がいい気になって――また自分への意地も手伝って――何をし出かすか分らないと思った。
 しかし、準之助氏に電話をかけようと思うと、あんな手紙を書いた後だけに、何となくわだかまりが出来て、つい三日ばかり経ってしまった。
 東京へ帰ってからの、打ちつづく悲しさ腹立たしさに、食慾が衰え、新子は急にやせてしまったように、思われた。
 夜は、美和子と床を並べて寝るので、妹が黙っているにつけ、喋るにつけ、その背後に在る美沢のことを考えて、いつまでも心が冴え、やがて思考から来る疲労と悲哀の圧力とで、押しつぶされたように睡眠に入るのは、いつも二時過ぎだった。朝は、夜の間にわれ知らず流した涙がにじみ拡がって頬をぬらしているのだった。
 今朝は、部屋の中が暗く、いつものように暑くなかった。美和子は、心地よさそうに眠っている。起きて、窓から見ると、雨である。サツサツと横なぐりの夏の雨である。八月とは思えぬほど冷たかった。
 新子は、今日は準之助氏に電話をかけようと決心した。姉の問題もあるが、しかし、今よるべき一縷《いちる》の糸もない新子のよりどころない心の寂しさが、そう決心させたのかもしれない。
 十時頃、近所の酒屋から電話をかけると、
「新子さんですか、僕は、もう会って下さらないものだとあきらめて、明日は東京を離れようかと、思っていたところです……」せわしない興奮した声が、新子を何となく微笑ました。
 正午《ひる》、昭和通りのレストゥラントAで、会おうという約束で、電話が切れた。
 家へ帰って、久しぶりでどことなく、ふくらみを持った気持で、鏡台に向うと、新子はまた一層気持が改まった。
 姉妹《きょうだい》とは背《そむ》き合い、美沢までも情けなくも自分を見棄て去った現在《いま》……彼女は、鏡に向って己《おのれ》の顔を眺めていると、この頼りない自分の姿を、そのまま見せてもいい相手は、前川一人のような気がした。
 彼女は、入念な化粧をした。汗がにじみやすい、夏の化粧は浮き立って、思うようにはしにくいものであるが、今日は肌が冷たく秋の初めのように、白粉も紅も、肌によく落着いて心地よかった。
 姉よりも地味な好みの、たった一枚持っている上布《じょうふ》の着物に、淡《あわ》い色ばかりの縞の博多帯で、やや下目にキリリと胴を締めて、雨よけのお召のコートを着て、新子は十一時、四谷の家を出た。
 ただ一人、円タクの片隅に小さくなって……しかし、思案深げな双眸の下の頬には、ウットリとした明るみが、久々に忍び上っていた。

        五

 八階まで、エレヴェーターで運ばれて、雨の日の午《ひる》の、さすがに閑散な広い食堂の、ロビイに足を入れると、葉巻をくゆらせて、準之助氏が一人、横顔を見せていた。
 新子は、そのまま立ち止って、準之助氏が、こっちを振向いてくれるのを待っていた。
「やあ。」
「私の方が、早いつもりでしたのに、お待たせしてすみません。」
 新子は、微笑しながら、準之助氏のかけているソファに間隔を置いて坐った。連れが揃ったと見て、給仕が早くも、メニュを持って、料理を訊きに来た。
「何になさいます。」と、準之助氏が新子を顧みた。
「何でも。嫌いなものございませんから……」
「僕と同じでかまいません?」
「どうぞ……」
「じゃね、ポタージュ、お魚のムニエール。マカロニ・ア・ラ・イタリアン。それだけ貰おう。」給仕は下って行った。
「先日は、姉が突然伺いまして、ほんとうに申し訳ございません。」新子の顔は、恥じらいで赤くなっていた。
「いや、僕は、貴女の代りに、お姉さんが来て下さったことも嬉しかったですよ。」すらすらと苦笑まじりに、そう云う準之助氏の言葉に、
「え?」と、新子が眼を上げると、
「そのくらい、僕は貴女をお待ちしていたと云いたいのです。」
 と、冗談めかしく、サバサバ云ってのけて、準之助氏は、新子に姉についての詫言など、云わせまいとする。
「あの晩、僕、すぐ貴女を駅まで、追いかけたのですよ。女房の容子で、貴女がどんなに嫌な気持で、帰られたかがよく解りすぎて、僕もとても厭な気持でした。だから、翌日、軽井沢を引き上げて来たのです。」準之助の気持も、新子の顔を見た時から、興奮し、はずみ上って、何となく浮々としているらしかった。
「お待たせしました。」給仕が、食卓の用意の出来たことを知らせに来た。二人は、ごく親しい連れのように、食卓に着いた。こうした寛《くつろ》いだ気持になったのは、初めてである。窓からは、雨に黒々と濡れている街の屋根が、遠くはるかに眺められて、雨が降っていても、ここ食堂の光線は、豊かに明るかった。準之助は、窓外に眼をやって、ナプキンを拡げながら、
「我々と雨とは、縁があるんじゃないですか、あの日も、今日も……」あからさまに、楽しい思出を辿るような視線で、そういう準之助氏の言葉に、
「え、ほんとうに。」と、答えたが、何だか情《じょう》を迎えるような調子であったことに気がつき、自分一人で羞かしくなり、頬が熱くなった。

        六

 もはや雇傭関係のない――主人でなく、家庭教師でなくなった二人の物いいは、自然と、わけ隔てがなく、フォークをときどき、休めて優しく話し合った。
「姉に、あんなことをして頂くと、ほんとうに困りますわ。姉は、演劇狂なんですもの、そのためには、どんなことをしても許されると思っているらしいんですもの。この先、どんなご迷惑をおかけするか……」
「いいじゃありませんか。僕は、ああいう方も好きですよ、一本気で……貴女よりもずーっと、子供みたいで……」
「いやでございますわ。そんな比較なんかなすって? もう、どうぞ私達姉妹のことは、捨てておいて頂きたいんですの……」
「それが、そうは行きません。僕には……」肩のこりの除《と》れるような、遠慮のない会話になり、新子は準之助氏に会ってよかったと思った。
「なぜでございます。」
「なぜって、僕は今まで、あまり道楽のない男だったんですから、月々ある程度の出費は、何とも思いませんし、貴女のお姉さんを後援するなんて、僕にとっては嬉しいことですし……それに圭子さんは、僕を演劇愛好家に定《き》めてしまっているんだし……」
「まあ、いやだわ。姉が、つけ上るはずですわ。」と、いったが、しかし新子は準之助の鷹揚《おうよう》な気持が、うれしくなって、つい笑ってしまった。
「それに考えてみると、僕という悪い人間は、貴女を失業させたことに、なっているんだから、どんなにしても、その償いをしなければいけないし……」
「あら、そんな理窟なんか、ございませんわ。」
「ありますとも、大有りですよ、圭子さんが見えた次の日、僕は貴女の手紙を見て、悄《しょ》げてしまいましたよ。これぎりじゃ、僕は貴女を、たいへん不幸にしたことになるんですもの。だから、これぎりになるなんて、僕はたまらないと思いましたよ。だから、
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