首を振って、席に着いた。
「ほんとうに、申し訳ありません。かんにんして下さい。」と、重ねて、詫び入りながら前川は、にわかに胸の内に、明るいものが、さし上って来るのを感じた。
(結局、俺の生活には、この人が一番、大事なのだ。この人をさえ失わなければ……何物をも犠牲にして、この人を失わないことが大事なのだ……。人生の方針を、そう訂正することが正しいのだ……)と、彼は思った。
 家へ帰って、夫人にどう云われようが、夫人がどんな行動に出ようとも!
 曲者の夫人は、こうなれば……前川の愛が、自分にないことを知れば知るほど、ただ夫婦という立場だけを、振り廻して、向って来るに違いなかった。しかし、夫人があらゆる謀計を逞《たくま》しゅうしても、もう前川は、二足三足昇りかけた殉愛の階段を、降りる気はなかった。いな、たといその階段が、地獄への下《くだ》りになっていようとも。
「僕どんな償いでも致します。だから、妻の云ったことなど忘れて下さい。」と、云うと新子は、首を振って
「いいえ。」と、打ち消した。
「どうして?」前川は、憂鬱そうに、顔を曇らせて訊ねた。
 新子は、せかずにゆっくりと、自分の気持を前川に伝えたかった。しかし、そうするには、ここはあまりに、人目が多すぎた。

        五

 新子が、何か云いためらっており、それがまた周囲のせい[#「せい」に傍点]だと思うと、前川は、
「ともかく、ここを出ましょうか。」と、云った。新子が、機械的に頷《うなず》いてしまったので、前川は重ねて、
「どこか、静かな家で食事でもしながら、お話ししましょう。」と、云った。
 新子は、素直に立ち上って、外へ出ると、レジスターへ行った前川を、涼しい夜風に、吹かれながら待っていた。
「どこへ行きましょうか。」と、訊ねる前川に、
「あちらへ!」と、築地の方向を指さすと、一、二間先に立って、電車通りを渡った。向う側の横町なら、人目も少いし、万が一にも綾子夫人に、見られる気づかいはないと思ったのであろう。
 出雲橋を渡って、人通りが少くなると、新子は歩調をゆるめながら、
「私、奥さまに、家庭破壊者だって、いわれたのが、一番悲しゅうございましたわ。」と、いい出した。前川は、だまって聞いていた。
「外国の芝居なんか読んで、(汝《ユー》! 家庭破壊者《ホームブレーカー》よ!)なんて、夫人《マダム》に追い出される女なんて、どんなに嫌だろうと思っていましたのに、私自身いわれてしまったんですもの。まるで、伝家の宝刀をつきつけられた賊のようでしたわ。私、どんな清純な気持でいても、奥さまの立場から見れば、そうに違いないんですもの。やはり、奥さまのおありになる方には、どんな意味でも、お世話にならない方が、いいんですわ。」
 前川は、新子に云わせるだけ、云わせた方が、かえって彼女の胸が晴れるだろうと思って、なお黙然として歩いていた。
「これ以上、お世話になっていても、年中ビクビクしていなければなりませんし……それに、美和子が奥さまに、随分失礼なことを申し上げたので、奥さまは、私達姉妹をもう、仇敵のように思っていらっしゃるでしょうし……」悲しげに声が曇り、新子もしばらくだまって歩いていたが、
「お世話になるばかりなってしまって、勝手なこと申し上げているようで、悲しいんですけれど……」と、新子は前川が、黙々とこっちの云い分を聞いているだけなので、かえって胸が一杯になり、その先を続けて云うことが出来なくなった。
 いつか、広い昭和通の歩道を、左へ左へと歩いていた。
「それに、私ばかりでなく、姉や妹までが、ご迷惑ばかりかけているようで、いやになってしまいましたの……」

        六

 人の往来《ゆきき》は少く、ただ自動車の激しく走り過ぎる広い通りに添うて、どこまでも歩きながら、前川の沈黙は、無気味なくらい続いた。
 ふとした出来心だとか、物の拍子で、新子に「酒場《バー》」を出させたのではなかった。
 新子に会っていさえすれば、何ということなしに心豊かに、新しい希望の湧き立つような、喜悦を感じるからだ。
 しかし、前川は穏健主義の紳士で、周囲を毀《う》ち破ってまで、新子との交情を深める考えはなかった。
 綾子夫人の眼から、そっとかくれて、静かな、足るを知る幸福に甘んじて暮して行こうと思っていたのに、綾子夫人はこうした、慎しく隠されたる花園にまで、踏み入って来て、新子をそこから追い出そうとしているのである。
 新子が感じているように、この関係は不自然に違いない、しかしそれかと云って、新子との交渉を絶ってしまうくらいなら、自分の位置や名誉はおろか、自分自身さえ、何か要らない無用のもののように、感じられて来る前川だった。
(お別れした方がいい)と云っている新子にも、何となくそぐわない一時的の感情が、動いている気がしてならない。
 自分の態度が徹底していないために、結局新子も、いい加減なところで、フラフラしているという感じであった。
 前川は、歩きながら、つくづく考えた。新子のような性格的にも上品な、一人の処女を獲るためには、自分の家庭や位置や名誉までも、犠牲にする覚悟が必要なのだ。及び腰で、手をさし延べているような、自分の態度のために、かえっていろいろな事件が起って来るのかもしれない。
 そう考えて来ると、ジワジワとねばり靭《づよ》い昂揚が、心の中に盛り上って来た。
「僕は、決心しました。妻が穏便じゃないんですから、僕も平和第一、安全第一の常識を棄てることにします。」彼は、静かにいった。
「え?」と、新子は、びっくりしたように、眼を見開いて、相手の横顔を見た。
「僕は、貴女を失いたくない! 何物に比べても貴女が大事だ!」
「だって……」と、打ち消そうとしたが、新子は顔を赤らめて、うつ向いてしまった。
「迷惑だとおっしゃるんですか。」前川は、勢い旺《さか》んに訊ねた。
「まあ、迷惑だなんて、そんなことをおっしゃるのなら、私このままどこかへ身をかくしてしまいますわ。さっきから、そんな気持で、申し上げているのではありませんのに……ただ、奥さまにだって、わるいし、……お子さま達にだって……」
「そんなことを貴女に考えさせていたのは、僕が卑怯《ひきょう》だからなんだ、今後、どんなことが起って来ても、僕のことで貴女にご迷惑はかけないことにします。僕は、その決心をしました。」
 相手の激しさに、新子はいよいようなだれるばかりであった。

        七

「さあ。もう考えないで下さい。」と、前川は明るく云いながら、我とわが心に、
(どうしたって、この人と離れるものか。どんなことがあっても頑張る、どんな手段でも取る!)と、云いつづけた。
 主客転倒で、今度は新子がだまりこんでしまった。
 前川は、ふと空を見上げた。昨夜が中秋であったという月夜空、雲がぐんぐんと動いていた。
「だって、どうなさるんですの。」やわらかく、新子が訊き返した。
「僕は、貴女が好きだ、絶対に別れない。今までは、僕が卑怯だったので、貴女に心配させた。これから、周囲のいかなる非難も受ける。妻とも戦います。だから、貴女は、僕の身の上について、心配することは、一切抜きにして、僕に対する一番素直な気持にだけなって下さればいいんです。」
 すぐには、返事が出来なかった。
「それそれ、そんなに考えないで下さい。考えれば、どうしたって、余計な思案が入って来ますよ。」
「それでいいのでしょうか。」新子の声が弱々しくかすれた。
「いいどころじゃない。僕達が別れたくないためには、そうしなければならない。理性にだけつけば、僕達は軽井沢で、もう別れて路傍の人になっていますよ。あんな酒場なんか出さないし、今度の事件なんか起らないんですよ。理性と感情と中途半端だから、ゴタゴタするんですよ。僕は、今度は貴女を失いたくないという自分の感情本位で行動しますよ。」
「私だって、感情だけで行動できたら、どんなに幸福だろうかと思いますの……、美和子のように……」
「うむ。」と、前川は深くうなずくと、たちまち自分の目頭がうるむのを覚え、新子が限りなく、いじらしくなり、ギュッと抱きしめて、顔中に唇の雨を降らせたい激しい衝動を感じるのを、息を呑み込んで、ズンズン歩きつづけることで、やっと押えた。
 京橋の十字路も、いつか越していた。
「お腹すかない?」
「何だか分りませんの。胸が一杯でご飯頂けるかしら……」
「随分歩いたから、ともかく落着きましょう。」と、その通りの路次を、少しはいった、大きい日本造りの鳥料理の店を、ステッキの先で示しながら、
「あの家静かですから……」
 新子はその先を見やりもせず、
「でも、そこまで行ってしまうの、なかなか勇気がいりますわねえ。」
「よろしい。今までは、僕がいけなかった。僕も勇気を出す、そして貴女にも勇気を出してもらうようにする。それでやってみて、もし日本が、住みにくかったら、一緒に三、四年外国へ行っていようじゃありませんか。」
 と、前川は獅子の如く勇敢に、料理屋の門をはいって、玄関へつづく砂利の小径を、新子のかぼそい身体を、抱くようにしながら、グングン歩いて行った。



底本:「貞操問答」文春文庫、文藝春秋
   2002(平成12)年10月10日第1刷
底本の親本:「菊池寛全集 第十三巻」高松市立菊池寛記念館刊
   1994(平成6)年11月
入力:kompass
校正:土屋隆
2007年8月10日作成
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