礼として、お金を頂いたから、その内私十円だけお小づかいに取っておいて、後は書留で送ったはずよ。」と、新子も興奮して説明した。
「知らない。初耳よ。そんなこと!」
「まあ! 着かなかった?」新子は、驚いて母の顔を見つめた。
「いやだわ。大金よ、お母さま。」
「いくら。いつ頃送ってくれたの?」
「百四十円、十日くらい前。」
「まあ!」母もあきれて目をまるくした。

        八

 母は、どうにも腑《ふ》に落ちないという眼を、新子に向けながら、
「まあ? おかしいわねえ。十日くらい前だって、一度だって、家を空けたことはないんだがねえ……」と、云いさして、台所に向い、
「おしげさん。」と、婆やを呼んだ。
「はい。」と、婆やがそこから、顔を出すと、
「十日くらい前に、家へ書留が来なかったかしら。」と、訊いた。
 婆やは、ちょっと首をかしげると、
「そうですね。いつか、上のお嬢さまが、書留らしいものを、お受けとりになったようでございますよ、たしか。」と、云った。
 そう云われて、母と新子とは目を見合わしたが、新子が、
「お母さま。じゃ、私お姉さまに訊いてみるから……」と、腰を浮かすのを、母は、
「新子!」と、おずおず呼び止めた。
 新子を姉娘のところにやることは、母としては何となく恐ろしかった。
「え!」と、探るように、母の前に、もう一度坐り直すと、母はもう涙を浮べていた。
「圭子はねえ。この十日くらい前まで、ひどくお金を欲しがって、わたしも四、五十円は出してやったんだが、いくらでも欲しがるので、お前に云われたこともあるし、ハッキリ断っていたんだが、それが十日前くらいからピッタリ強請《せび》らなくなったので……」母は、早くも姉娘を疑っているのだった。
「じゃ、お母さまは、私の送った書留を、圭子姉さんが、だまって使ったと思っていらっしゃるの……」
「まさかとは思うけれど……」母は暗澹《あんたん》としていた。
「じゃ、私お姉さんに訊《き》いてみるわ。もしそうだとすれば、お姉さん、あんまりヒド過ぎるんですもの。行って訊くわ。お姉さまに。」と、決然として立ち上ろうとすると、
「お前が訊いたんじゃ、姉妹喧嘩になってしまうんだもの。私があとで訊いておくから……。でも、そんなお金があったら、どれだけ助かったか分らないよ。先月は、美和子も随分お金を使うし……いくら、貯金を減らさないようにしたって一文も外から入って来ないんだからねえ。お前が折角送ってくれるものは、そんな風になってしまうし……」母は、堪え性のない涙をボロボロ膝の上に落していた。
 妹が妹ならば、姉も姉だった。
 新子は思わず、舌打ちの出そうな自棄《やけ》くそな気持が、胸もとへジリジリと焼けついて来た。
[#改ページ]

  心なき姉




        一

 その翌朝のことだった。
 宵の化粧を、すっかり拭き取った……そのために一層子供らしく、軽い開いた唇の間に、安らかに正しい呼吸が通《かよ》っている、美和子の寝顔を、新子は複雑な感情で眺めていた。
 肉親の姉のことも、先々の生活のことも、一切考えない、どうでも一緒になりたいと、しゃにむに[#「しゃにむに」に傍点]突進する美和子の情熱に、顔負けした新子は、一時は茫然としたが、しかし心の中は荒《すさ》み切っていた。
 もちろん、一歩も二歩も間隙のある恋愛であったにしろ、お互に理解し合った愛情を堅く信じていた美沢が、かように速《すみや》かに自分の手から離れるとは思っていなかった。
 むろん、やんちゃな妹が、何をいおうとも、もう一度美沢に会って、相手の気持を確かめたい未練が、切実に湧いた。しかし、美沢の心が変っていないとしても、美和子があきらめるはずはなく、結局は姉妹《きょうだい》のあさましい競《せ》り合《あい》になって、お互に気まずい思いの数々を、味わわなければならぬと思うと、今更美沢に手紙一つ書きにくく、電話一つかけにくいような、割切れないものが、心の底に澱んでいた。
 美和子が、眠そうに細目を開けた。静かに、首《こうべ》を廻《めぐ》らして、ジッと姉の視線を迎えた。
「もう何時……?」
「八時半頃じゃないかしら……」そう答えた新子の気持は、不思議なくらい、平静なものになっていて、自分でも気づかない内に、姉らしい微笑を向けていた。
「ねえ。お姉さま。昨夜《ゆうべ》よく、お休みになれた……?」寝起きとも思われないほど、ハッキリと晴々した声に、新子は、
「そうね、貴女《あなた》が帰って来て、唄を歌っていたのは知っていたけれど、眠ったふりをしてたわ。なぜ?」と、正直に訊き返した。
「ううん。」と、美和子は、身を転じてしまった。
 そうされると、新子はまた平静な気持が、グラグラとこわされかけたので、静かに床を離れて階下《した》へ降りてしまった。
 すると、新子の下りるのを待ちうけていたように、圭子が、
「前川さんから速達よ!」と、白い封筒を差出した。ちょっと、かつがれたのではないか、と思いながら、受け取った。が、まさしく裏に元園町のアドレスを刷り込んだ前川氏の手紙だった。
 その白い封筒を、サリサリと裂いたとき、新子の気持は、決して平らかなものではなかった。

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いろいろ貴女に、お詫《わ》びしたいことばかりです。僕も昨夜遅く帰って来ました。一刻も早く貴女にお目にかかりたく、その上、お詫の言葉と僕の気持を聴いて頂きたいのです。今日午前中は自宅に、午後は会社におります。いずれかへ、ぜひお電話をねがいます。電話が、ご都合わるき時は、お手紙を。会社の電話番号は、銀座五六八一です。一刻も早くお目にかかりたいと思います。
[#ここで字下げ終わり]

 文句は、短かったが、新子は相手の、青年のような熱情に打たれずにはいられなかった。

        二

 手紙を読み了《お》えた新子に、
「前川さんも、東京へ帰っていらっしゃるの?」たちまち、傍《かたわら》から姉が、余計な詮索をし始めた。
 新子が、だまっていると、
「何て云ってよこしたの、貴女にすぐ帰ってくれと云うんでしょう……」だまっていると、もっと余計なことを云いそうなので、
「ほんとうは、私奥さまと喧嘩をしてしまったの。ご主人にご挨拶もしないで帰ってしまったので、心配していらっしゃるの。でも、どうにもなりやしない!」
「だって、折角手紙下さるんですもの、行って会っていらっしゃい。今度は、関係していらっしゃる会社の方にでも、使って下さるわよ。」
「いやよ。もう、前川さんのお世話なんかに二度とならないことよ。」
「そうお、それでも、ご主人だけには、挨拶して来るといいわ。私のためにだって、あんなにして下さったんですもの。」
「………」
 新子がだまっていると、
「私も、お礼に顔出ししなければいけないわねえ。」と、とんでもないことを云い出したので、
「よしてよ。お姉さんが、余計な所へ顔を出すのは。」と、ハッキリ抗議した。
 まるで、この半月ばかり、姉のために奉仕したような気がしていやだった。何から何まで、勝手なことをして(前川さんへお礼に行く)もないものだと思った。
 新子は、姉との小うるさい問答を避けて、二階へ上った。そして、美和子を追い立てるように、階下《した》へやると、前川氏への手紙を書き始めた。
 会いたくないことはなかった。自分独りが、こづき廻されているような、悲しい気持を慰めてもらうのには、前川氏に会うのが、一番だったが、こんな迷《ま》い子みたいな今の気持で、前川氏に会うことは、避けたいと思った。今日など会って、こちらの悲しみを話し、お互に慰め合ったりしていると……そこまで考えると、空恐ろしくなったので、このまま会わないか、でなかったら、当分の内でも、会わないことにしたいと思った。

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ただ今、速達を頂きました。私の突然な帰京で、お心を乱してすみません。何とか、一言ご挨拶すべきであったと後悔しています。
お詫びなどと、おっしゃられると、かえって困ります。私も、軽井沢にいたときのことは、みんな夢であったと、忘れ棄てるように努めますゆえ、貴君《あなた》様も、あれは夢であったとお忘れ下さいませ。折角のお手紙ですが、今お目にかかりますのは、何となく恐ろしい気が致しますゆえ、もっと時が経ってから、一度お目にかからせて頂きます。蔭ながら、お子様のご幸福とご健康をお祈りいたします。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]新子
  前川様

 電話など、到底かける気はしなかった。

        三

 前川氏は、午前中家で新子からの電話を待ち、午後から会社のビルディングへ行き、交換手に電話がかからなかったかと訊いてみたが、いいえ、どなたからもという返事であった。冷房装置が、妙に肌寒く、少し偏頭痛を感じ、絶えず新子からの電話が気になり、留守にした間に、たまった文書に目を通す気にもなれなかった。こんなに、絶えず気がかりになるのであったら、いっそのこと会うべき場所を指定した方が、キッパリしてよかった。電話をかけてくれなどというのが、無理だった。手がるに電話を借りる家がなければ、この炎天に自動電話へ行かねばならず、などと考えて後悔しながら、あきらめ悪く、会社を出たのが、六時近くであった。
 家へ帰って、一人で食事をするのも憂鬱なので、東京倶楽部へ立ち寄って、食事をした。顔見知りの連中は、みんな避暑へ行ったとみえ、ここも淋しかった。
 家へ帰ってみたが、高原の涼風に馴れた身には、いわん方なく暑かった。洋館の居間には、風が通らないので、浴衣《ゆかた》に寛《くつろ》ぐと、庭に面した下座敷の十二畳のガラス障子を開け放って、冷たい飲み物を前に、涼を入れていると、縁側に女中がピッタリと坐って、
「あの、南條さんとおっしゃる方が、お見えになりました。」と、しかつめらしく云った。
「えっ!」と、思いがけないことなので、訊き返すと、
「若い女の方でございます。」という。あまりの吉報なので、かえって信じられず、
「おかしいな。軽井沢に行っている南條先生かい?」と訊き返すと、
「さあ。私は、南條先生には、お目にかかったことはございませんけれど、多分その方でございましょう。若い、お美しい方でございます。」と云う。
 準之助は、そう答えられると、もう疑う余地はなかった。(電話をくれ)と云ったのを相手はまだるしとして、直接に来てくれたのである、あの人が、こんなに簡単に手がるに(妻も一しょに帰っているという危険もあるのに)来てくれるとは思わなかった。――ともあれ、早く会いたい。にわかに、生々《いきいき》とあわて出した。
「応接室へ――暑いだろうね、どこも……」
「はあ。」
「と云って、ここじゃわるいし。応接室へ、煽風器をかけて、冷たいものを差し上げて……」自《おのずか》ら弾む口調で、命じると、浴衣ではわるいと思い、さっき脱いだ黒い上布《じょうふ》に着かえ、応接室へ急いだ。
 だが、応接室へ、顔をのぞかせて、思わず、
「あっ!」と、小さくはあったが、口に出して叫んでしまった。彼は、訪客を新子であると信じ切っていたのに、彼が部屋へはいると同時に、立ち上った女性は、全然見知らぬ女性であった。しかも新子くらい美しい……。

        四

 準之助がけげんな面持で、一歩を部屋の中に進めると、見知らぬ美しい女性は、たちまち立ち上って、愛嬌深く笑った。その唇元《くちもと》で、準之助は、やっとこの女性は、新子の姉妹であると思い当った。かれも初めて、親しい笑いをもらして、軽く一礼した。
「妹だとお思いになったのでしょう。私、新子の姉の、南條圭子でございます。妹がいろいろお世話になりまして……」鹿つめらしい挨拶に、
「いや。どうぞ、おかけ下さい!」と、席に落着かせた。新子の電話を待ちつづけた準之助には、思いがけない姉の訪問は、多少とも心うれしいことだったが、同時に新子が病気にでもなって、その断りに姉をよこしたのではないかと、少し不安になっていた。
 新子よりは、二つくらいは上の二十三
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