い弱々しさが、生気とともに、媚々《びび》と彼女の全体から感じられた。
新子は、よく小言をいうものの、心の中では美和子を愛していた。
お転婆で、茶目で、母に世話をやかせるところの多い妹ではあるが、新子は姉よりも、ずーっと愛《いと》しがっていた。
もしも、恋をしているのなら、早く様子を聞いて、最初の恋を遂げさせてやりたかった。
(誰にだって、愛されるに違いなく、どんなに愛されたって、いい娘だもの)そう思って、新子はやさしい微笑を、美和子に向けた。
美和子は、なぜかあわてて、姉の眼をそらしながら、
「お姉さまは、結婚なさる?」と、口ごもりながら、いきなり訊いた。
「結婚するって、誰と。」
「しようと思えば、誰とだって出来るじゃないの。誰かと結婚しようと思ってらっしゃるかって、伺ってるのよ。」と、急に意地のわるい物云いをした。
「おや、こわいのね。私、結婚しようなんて思ってる人なんかないわ。あったって、なかなか出来ないもの。どうして、そんなこと訊くの?」
「ほんとうに、本心からそう思ってらっしゃるの?」
「気味がわるいわ。もちろん、本心からよ。」
「で、安心したわ。私、お姉さまは、美沢さんと結婚するつもりかと思っていたのよ。で、なんだったら……」
新子は、いきなり真正面から、不意打に、胸を衝《つ》かれたような思いで、美和子を、じっと見据えた。
美和子も、強い眼で、その視線を受けながら、
「私、お姉さまが、軽井沢へいらしった後で、美沢さんに会ったの。」と、云いつづけた。
新子はそう聞くと、眼の前に立っている妹へも、また美沢に対しても、等分に、心の底から浮ぶ瀬のないような、厭《いや》な気持に暗くなりながら、思わず、せき込んで、
「それでどうしたの……?」と、訊いた。
四
美和子も、ハッとするほど、その瞬間に、姉の顔にはげしい影が通り過ぎ、嫉妬と憤《いきどお》りと悲しみの色が満ち溢《あふ》れたので、さすがの妹も、それ以上臆面もなく、物をいい続けることが出来なかった。
かの女は、洋服《ドレス》のひだをピタピタたたくと、姉に背を向けて、縁の方に歩いて行き、欄干《てすり》にもたれて、ぼんやりと晴れている空に、眼を向けてしまった。
「ねえ、美和ちゃん。貴女美沢さんと、なにか約束でもしたというの? ちゃんと聞かせて、頂戴!」新子はたまりかねて、一時に動きの取れなくなった気持を、そのまま言葉の調子に表して、美和子を追及した。
「美沢さんて、いけないのよ。」
「どうして!」
「だって、日曜日ごとに会おうって、約束しちまうんですもの。」
「いつ、そんな約束したの。」
「この前の日曜日よ。あんまり、色々訊かないでよ。お姉様。」
「それで……それで、貴女いいつもり?」新子は、口が利けなくなっていたが、それでもまだ健気《けなげ》に、涙だけは抑えていた。
美和子は、クルリとこちらへ向いた。
「美沢さんは、お姉さまに、悪いといっていたわ。でも、美沢さんもいっていたわ。新子さんは、僕と結婚するつもりはないんだって。……私は、お姉さまが、許して下されば、あの人と結婚するつもりでいるの。」新子は、茫然としてしまった。たちまち、愛人からも肉親からも、馬鹿にされたような、深い悲しみを感じた。
彼女は、妹の前で泣いてはならぬと、グッと喉もとで、悲しみをこらえながら、
「許すも許さないも、ないけれど。だって……」と、云いさして、こらえ切れなくなり、妹から顔をそむけた。
美和子も、涙をこらえていた。彼女は、自分が、美沢と交際することが、こんなにまで姉を苦しめるとは思っていなかった。幼かったとき、姉がよく玩具《おもちゃ》などについての無理を聞いてくれたほどの手ぬるさで、許してくれると思っていた。だって、お姉さまは、美沢さんに不即不離だったんだもの、私の方がハッキリ愛しているんだものと、思っていた。だから、姉がこんなに狼狽し、こんなに悲しがるとは思わなかった。それで彼女も、悲しくなって、うつむいて、靴下の爪先に、ぽたりと涙を落した。
しかし、もうどうすることも出来なかった。
その涙も、一分も経たない内に収まってしまうと、かの女は、姉に露骨にいってしまった晴々した幸福の方が、ムズムズ強くなった。
お姉さまは、何とかあきらめて下さるに違いないと思った。
日曜日ごとに会おうということは、本当は美和子の方からいい出したので、今日も美沢がほかに用などの出来ない内にと、一刻も早く出かけたかった。
「お姉さんが、こんなに急にお帰りになると思わなかったんだもの……だから不意にこんなこといっちゃって……」いいわけにもならぬことをいいながら、階下《した》へ降りる機会《しお》を、計っていた。
五
美和子が階下《した》に降りて行き、やがて格子戸の開く音がして、外へ出て行ってしまうと、新子は急に泣き出した。
つもりつもった涙で、一たんこぼれ出したとなると、後から後からと止める術《すべ》もなかった。
妹を心から非難することも出来ず、美沢を深く咎《とが》める気にはなれなかったが、ただ自分だけが、羽根をむしられた鳥のように、寂しい悲しい気がした。
家のため、姉妹《きょうだい》のためにと思って、思い立った家庭教師の仕事だった。美沢と、ひたむきに結婚まで進まなかったのも今自分が結婚してしまっては……母が……妹が……と思う心づかいからであったのに。
だのに、たった半月しか東京を離れていないまに、美沢も妹も、自分からはるかに遠い人間になってしまっているのだ。
軽井沢へなど行かなければ……と、やや涙の納まったひまに思い返すと、悪夢のような昨日《きのう》のことが、準之助氏の面影と共に、ハッキリと甦って来た。
あのあやまちも、軽井沢へ行ったためだった。夫人に対する意地と反感と、準之助氏から受けた同情と好意と自然の脅威を前にして、人間同士がお互にすがりつこうとする本能から、ついあんなあやまち[#「あやまち」に傍点]を犯してしまった。
何だか、自分自身が、頼りなく、哀れまれて、大ゲサな感傷に揺り立てられて、容易に泣き止むことが出来なかった。
「新子ちゃん、どうしたの。新子ちゃん。」
階下から隣の部屋へ、上って来ていたらしい圭子が、聞きつけて、びっくりしたようにはいって来た。
姉にとがめられて、ピタリとすすり泣きは止めたものの、まだ肩がふるえていた。
「どうしたのよう。」
容易なことで、取りみださない平生の新子を知っているだけ、圭子もこれはよほど、重大事と思ったらしく、しゃがむと姉らしく肩に手をかけて、
「ねえ。どうしたの。」と、不安そうにうかがうと、
「放っておいて!」と、新子は肉親らしい遠慮のない邪慳《じゃけん》さで、姉の手から身を引いた。
「何でもないのよ。放っておいて。お姉さんなんか、あっちへ行っちまってよう。」と、切れ切れにいいながら、また泣き沈むと、圭子はもの珍しいような、困ったような表情で、
「ほんとに、どうしたの。子供みたいに、ねえ泣くのよして。どうしたのか、おっしゃいよ。」と、無理につっぷしているのを起しにかかると、
「お姉さんの知ったことじゃないの。あっちへ行って!」力いっぱいよけられて、圭子は明かに不満の色をうかべ、
「まるで、ヒステリイね、前川さんのこと、ダメになったの。」と、立ち上りながら、手もちぶさたに妹を見おろしていた。
六
新子は、姉から前川家のことをいわれると、にわかにまた、いやな気持になってしまった。姉から、あんな非常識な無心が来なかったら、あんな事件も起らなかったかもしれず、また起ったにしたところで、金銭上の負い目さえなければ、もっと朗かで居られたのにと思うと、この惨めな暗い気持の原因のいくらかは、姉にもあるような気がして、急に語気も荒々しくなって、
「前川さんのことなんか聞かないでよ。そんなことを心配するくらいなら、あんな心ない無心なんかどうしてするの?」と、いった。
姉も、少しタジタジとなって、
「それは、私がわるかったわ。でも、あのことで、前川さんの方がダメになったのじゃないでしょう。だって、あの無心は快く聴いて下さったんでしょう。あの翌日、お使いの人がちゃんと届けて下さったんですもの。私、随分感心したのよ。前川さんて、何といういい方かしらって、ご主人がいい方? 奥さまがいい方?」
「………」
新子が、ますます不愉快になって黙っていると、
「お二人ともいい方なんでしょう。そうして、芸術に理解の深い方ね。それに、第一貴女がとても、信頼されていたんでしょう。これじゃ興行ごとに、切符の百枚や二百枚は、引き受けて下さるだろうと思って、私すっかり嬉しくなっちゃったのよ。」と、勝手なことを話し出すので、新子はすっかり憂鬱になって、だまりつづけていた。
「ねえ。」
「………」
返事をしないでいると、姉の手がまた肩にかかった。
「私、お目にかからなくっても、前川さんという方想像が出来てよ。だから、貴女が急にダメになるなんて、考えられないの! ねえ、どうしたの? 私だって、ガッカリしちゃうわ。」
姉の利己的な考え方に、あきれて涙も出なくなってしまった新子は、顔を上げて姉の顔を見直した。
「貴女、ほんとうに前川さんのところよすつもりで帰ったの。一体、どうして?」
「お願いだから、今訊かないで……」
「でも、よしたことはよしたの。」と、なおしつこく訊くので、新子はうるさそうに、
「ええ、前川さんのところはよしたの。でも、それだけが悲しいのじゃないのよ。いろんなことが、一しょくたになって悲しいのよ。」と、ややこらえ性のない人のように、恨みっぽく、姉にも少し当てつけていうと、また涙になりそうなのを、やっとこらえた。
「新子、起きたかい、起きているなら、ご飯たべたらどう。ここが、片づかないから。」と、母が階下《した》から声をかけた。
「はーい。ただ今。」新子は、それを機会に姉を棄《す》てて、下に降りた。
七
下の茶の間には、もう夏の陽がカッと反射して明るかった。
新子は、茶卓の前に、まだ尾を曳《ひ》いている悲しい気持を、紛らわすように、朝刊を展《ひら》いて坐った。
母は、ギヤマンの壺から、梅ぼしを小皿にわけて、茶を入れてくれたが、
「どうしたの。新子、額が狭くなったみたいよ。たいへんな顔をしてるわねえ。どうしたの。」心配そうに尋ねた。
「何でもないのよ。」と、母にも少し、すねて答えると、
「何でもないって! 昨夜《ゆうべ》だって、あんなに突然帰って来て、顔色もよくなかったし、こっちだって心配で、昨夜はろくすっぽ[#「ろくすっぽ」に傍点]眠りもしなかったのよ。話しておくれ、ほんとうに、どうおしだい?」
「どうもしないわ。ただね、前川さんの方、もうダメになってしまったの。どうも、奥さまと、うまく行かないの。今朝起きてそのことを考えていたら、つい悲しくなって! でも、もうなんでもないの。」
「お父さまがね、生きていて下さったら、お前に他人《ひと》さまのご飯をたべさせるようなことは、しないでも済むのに……お父さまも、もう五年生きていたいと、おっしゃっていたが……奥さまはむずかしい方らしいと、初めからお前も云っていたね。あんなに遅い汽車で、若い娘を帰しておよこしになるなんて!」愚痴まじりに、母の声が悲調を帯びて来た。
新子は、母に狭く見えると云われた額のあたりをさすりながら、つとめて快活に、
「汽車なんか、私が勝手に遅い汽車に乗ったのよ。そりゃ、お子さん達は、とても素直で可愛いのよ。私に、とてもよくなついて、女のお子さんなんか、病気中、まるで私がお母さんの代りなの。だから、ご主人が、あんなに沢山お金《かね》下さったのよ。ねえ、お母さん! あのお金、どうなすった? 月末の払いをして、少しは残ったでしょう?」と、訊ねると、
「お金って、何だろう。」と、母は、けげんそうに、目を刮《みは》った。
「あら、いやアね。お嬢さまが、ご病気の時、私がよく看護してあげたので、そのお
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