えはないと思いますし、あんな散歩好きの人だと、どういうところを、ウロウロするか分りませんし、狭い軽井沢ですもの、貴君とご一しょのところなんか人に見られたら、私の顔にかかわることですものね。子供なんか誰にだって、馴れますわ。何もあの人に限るわけのものではありませんわ。」
夫人の性格の中には、やさしさとか素直さとかは、薬にしたくもなかった。すべてが、皮肉で、意地わるで、厭がらせで、しかも鋼鉄の針のように、鋭かった。
だから、素直に、正面からやきもち[#「やきもち」に傍点]を焼くなどということは、彼女の誇《プライド》が絶対にさせないことである。
(どう? こう、私が云えば貴君は、何も文句はないでしょう)と、そんな眼顔で、準之助氏をながめやりながら、夫人はもうこのことは、片づいたと云わんばかりに、
「何時かしら、添田さんは、随分遅いわねえ。」と、空うそぶいている。
準之助氏は、心の中の烈しい動揺を、じっと抑えて、
「南條さんは、帰るとすれば、いつ帰るのかね。」と訊ねてみた。
「あの人も、憤《おこ》り虫らしいから、私に暇を出された以上、一晩だってこの家にいないでしょう。もう帰ったのかもしれないわ、貴君にご挨拶もしないで。そうそう、さっきの自動車、あれで帰ったのかもしれないわ。」
温柔な良人の顔を、馬鹿にしたような笑顔で見やった。
先刻、自動車のエンジンや警笛が聞えた時、不思議がって訊くと、白ばくれてだまっていながら、今になって、と思うと、準之助氏は思わず、湧き上る怒《いかり》をじっとこらえたが、顔の表情は、あやしく歪んだ。
そのゆがみ[#「ゆがみ」に傍点]を、夫人はすかさず見て、立ち上って、呼鈴《よびりん》を押すと、
「ご心配なら、女中を呼びますから、お訊きになるといいわ。」と、いった。
女中を呼んできいてみたとて、新子がいるはずはない。すべてが、夫人の思惑どおりに行われたに違いない、新子にすぐ支度をするように命ずると、きっと女中を通じてこんな風にいったに違いなかった。
(お帰りになるんでしたら、子供達が食事をしている内に、帰って頂きたいんですの。子供達が貴女のお帰りになるのを知って、うるさくつきまとったりすると、ご迷惑でしょうから。主人にも私からよく申しておきますから、直接ご挨拶なさらなくとも、いいと思いますの。でも、強いてお会いになりたいんでしたら、お止めは致しません)
とにかく、一刻もいたたまれないような、言葉で新子を追い出したに違いなかった。
すぐ、夫人の押した呼鈴に応じて、女中がはいって来た。
夫人は、だまったままで、良人に、
(お訊きになっては!)という、顔をした。準之助氏は、さすがに夫人の前で、夫人に踊らされて、そんなムダな問いを発したくなかった。
「別に用はなかった。テーブルの上を片づけてくれ。」といった。
八
常に、つねにそうであるように、夫人とは是非を論ずることは、出来なかった。論ずれば、そこに大破裂があるだけだった。
準之助は、今も夫人の巧妙な、意地のわるい仕打ちの前に、うんともすーともいえず、ズシーンと重く暗く、心が沈んでしまい、ただ一刻も早く夫人が外出してくれればと祈るばかりであった。
だから、彼は夫人が、誘いに来た添田夫人と一しょに出かけるが早いか、すぐ新子の部屋に駈けつけてみた。
机と座蒲団のほか、その人のらしい荷物は影もなく、室内塵一つ止《とど》めない寂しさ、整然さ――準之助氏は、急転直下の勢いで、自分の心が、地の底へめり込んで行くのを感じた。
「おい! おい! ちょっと。」彼は、階段の所へ出て来ると、そこから近い台所の召使を呼んだ。
太った身体をよちよちさせて、駈け上って来た旧い顔の女中に、もどかしげに、
「南條先生は、何時に発った!」とかぶりつくよう。
「先生は、七時半の汽車でお帰りになりましたんですが。ああ、まだ申し上げも致しませんでしたが、先生からお心づけを頂戴致しましたんで……」
「杉山いるかい。」
「ただ今奥さまのお伴で……」
「こまったな。旧道の何とか云うタクシ、あすこへ電話をかけて一台急にと云ってくれ。」
「はい。」
もう、八時近い。しかし、先刻食事の時に聞いた自動車で行ったのなら、新子も汽車に乗り遅れて、駅でマゴマゴしているかもしれない、それがただ一つの心頼みで……。
自分に、一言の伝言もなく去らなければならなかったとすれば、妻の態度がどんなに辛辣《しんらつ》であったかが想像される。恐らく、新子は自分とも再び会わないつもりで、この家を去ったのかも知れない。準之助は、失踪した愛人を、追いかける青年のように、焦慮し緊張していた。
駅までの道を、思いきりスピードを出させたので、雨でこわれた路面のため、準之助の身体はいくども弾んだ。
だが、駅に着いてみると、上りも下りもしばらく間のあるという待合室や、プラットフォームは、寂として人影もなく、準之助は今さらのように、心を抉《えぐ》るような悲しみに囚われてしまった。
新子は、自分にとって最初の恋人である。
むろん、先刻の行為は、穏当ではなかった。
しかし、それが妻に分っているわけはない。妻に分っていることは、雷雨の中で、二人がどこかで会ったかもしれないということである。たったそれだけのことで、罪人をでも叩き出すように、新子を追い出すということが許せるだろうか。
準之助は、他人を一歩も仮借しようとしない、夫人の増上慢に、……その無残な仕打に、良人として、いな一人の人間として、呪咀《じゅそ》の叫びを上げずにはいられなかった。
(俺は、キレイ事が好きだった。平安を愛した。だから、俺は、お前に辛抱したんだ! しかしこうまで、俺を侮辱するなら、俺も人間としての自由と、男性としてのわがままを発揮してやる。こんなことで、新子さんを俺から奪ったつもりでいるのか。俺は、今までの十倍もの強さで、新子さんを追ってやるぞ!)
そんな憤《いきどお》りや決心が、彼の心を縦横に飛び違った。
[#改ページ]
荒む心境
一
新子が、昨夜四谷の家に帰ったのは、十二時過ぎであったが、昼の酷暑に乾き切っている都会の空気は、夜になってもまだむしむしと暑く、殊に建てこんでいるこの裏街では、まだ縁台に出ている人もあり、戸を閉めない氷店もあるくらいで、新子の家も、今しがた美和子が帰って来たばかりらしく、家族は起きていた。
時ならぬ時の新子の不意の帰宅に、みんな不吉な想像しか湧かせなかったが、誰も新子に遠慮してその理由を深くは訊かなかった。
新子も、それを幸いに、妹と一しょに二階へ上ると、いち早く寝衣《ねまき》に着かえて、床の上に四肢をのばした。が、軽井沢の冷々した夜気にひきかえて、夜半過ぎても汗ばむほどの東京の暑さと、昼から引きつづいている胸のもだもだしさのため、容易に寝つかれず、幾度も寝がえりして、二時を聞くまでは、寝わずらっていたが、間もなく文字どおり、前後不覚な深い眠りに落ち、部屋に射し込む暑い午前の日ざしに、眼が覚めるまでは、夢も見ずに眠ってしまった。
眼覚めてしばらくは、頭の中に何もなかった。昨日《きのう》のことさえ跡形もなかった。ただしみじみと手足をのばし、眠れた朝の、頭の明らかさで、ひどくわが家が、しんみりと楽しい場所に思われた。
静かに頭をめぐらすと、淡いピンク色のシュミーズ一つで、朱塗りの鏡台を光線の都合を計って、畳の真中に持ち出して、化粧をしている美和子の姿が、ピチピチした新鮮な、一枚の油絵のように眺められた。
パチパチ眩しそうに、愛らしく目ばたきしながら、姉の方をチラと見て、
「お姉さま、死んだ人のように眠ってたわよ。」と云った。
美和子の手元から、甘い香料が強く匂って来た。
「美和ちゃん。急に綺麗になったわねえ。」新子は、驚きをそのまま、言葉に表して云った。
一心に鏡の中を見入りながら、横顔で、満足そうな笑顔を見せて、
「みんながそう云うのよ。だから少し嬉しがってるの。」と云うのを、
「顔でうぬぼれるのはおよしなさいね。みっともないから……」と、云いながら、それを機会《しお》のように、身を起した新子はまたびっくりしてしまった。
美和子の鏡台の前には、実にぜいたく[#「ぜいたく」に傍点]な化粧品が美々しく並んでいるのだった。
「あーら、貴女《あなた》。こんないいものを使っているの。」
新子自身、教養ある女性の趣味として、せめて化粧品だけは、筋の通ったよい匂いのするものを使いたいという慾望をやっと抑えているだけに、妹の使っている七円もするウビガンのケルク・フルールの小さいやさしい瓶に、非難の眸を向けずにはいられなかった。
二
「圭子姉さまが、この間《あいだ》資生堂で、ドウランを買う時、一しょに買いなすったのよ。」
美和子は、云いわけをしながら、小さい唇に、タンジーの紅《ルウジュ》をつけている。
「そのほかは、みんなマックス・ファクター専門なの?」
妹を非難する新子の心も、鏡台の前の各々好もしい形をしたマックス・ファクターのクリームやローションや粉白粉《こなおしろい》の瓶の形の好もしさに緩和された。
新子も、それを見ている内に、一瞬いそいそとした気特になり、そのまま美和子の立った後に坐って、コールド・クリームで顔を拭き始めた。
「ねえ、お化粧品だけは、いつでもこんなの使っていたいわ。ねえ。お姉さま。私、指輪だの時計だの帯どめなんか、ちっともほしくないの。」
「貴女、随分お洒落《しゃれ》になっちまったのね。」
「ええ。」
あまりに、釈然とした返事だったので、思わずおかしくなって後《うしろ》をふり向くと、ついぞ見馴れない、洋服をすっぽりと頭から被っていた。
ギンガムか、トブラルコか、何かしら木綿のゴワゴワと音のしそうなものだったが、そのくせ着てしまうと、どんな絹物《シルク》でも、この味は出まいと思われるほど、ピッタリと、はち切れそうな身体の線に合って、それがむき出しの肩と、胸についているシイクな桃色のレースの飾りに調和し、小さい美和子の身体がとても色っぽく見えるのであった。
「いつこさえたの、お手製じゃないわね。」
「相原さんの作る銀座のクロバーよ。」
「あんなところじゃ、木綿ものだって、シルクと同じくらい、仕立代がかかるんでしょう。」
「布地《きれじ》は、全部で三円五十銭しかしないのよ。仕立代は、相原さんの方の、つけにしておいてもらったの。」
「そんなことしたら、悪いじゃないの。仕立代いくらくらいなの。」
「十円くらいでしょう。……ねえ、似合うわね、シルヴィア・シドニイみたいじゃない?……」
「何を、そうお調子に乗って、浮々しているの。貴女少しおかしいわねえ。」
「ふうん。」と、ちょっと恥かしそうな、含み笑いをしながら、
「だってえ。この頃とても、楽しいんだもの。今日は、そら日曜でしょう。日曜は坂を上ることに決めたのよ。」
「何を云ってるのか、お姉さんにはちっとも分らないわ。」
「お姉さまなんか、軽井沢へ行って、先生なんかしているからいけないのよ。日曜日には坂の上にある家を訪ねることになっているのよ。まだ解んないのかなア。」
これは、靴下を穿きながら、うつ向いて、小さくいった言葉であった。が、にわかに改まって、
「お姉さまは、もう軽井沢へいらっしゃらないの。」と、訊いた。
三
「もう行かないわ。九月になったら、会社か雑誌社のようなところに、就職を頼んでみるつもりよ。」
「お姉さまが、もうずーと、家にいらっしゃるんだったら、私お願い……って、話があるんだけれど……今日じゃなくってもいいのよ。」
「貴女さえ、いそいで出かけないんなら、今日だって、いいことよ。何よ。」新子は美和子が恋をしているのだと直感した。
ちょっと会わない間に、まるで新しい生命を吹き込まれたように、美和子は生々としていた。以前から、快活でお転婆ではあるけれど、つい一月前の美和子には無かったような、抱きしめてやりたいような、女らし
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