のしたことが自分で信ぜられない気持だった。
 そうした、いろいろな後《のち》の思いに、打ちひしがれていた新子は、準之助氏が帰って来たこともレコードが一時止まったことも、気が付かなかった。
 しばらくしてスキーパの「グラナダ」が、その盤の裏にある「プリンセスタ」に、変っているのに、気がついただけであった。
 あの曲が、了ったら夫人のところへ行こう。あまり、時が経ち過ぎて、不自然にならない内に、謝りに行こう。しかし、主人とあんな風なことをした後で、謝りに行ったのではと思うと、新子の心は暗かった。
 ほんとうは、これを機会に、この家を出た方がいいのではないかしら、それが、準之助氏のためにも、自分のためにも一番いいのではないかしら、自分と準之助氏との関係が、これ以上進まないうちに。
 自分は、あの方からお金を借りている。しかし、あの方に唇を奪われた。どんなに低く評価しても、処女の唇、その価五百金、千金に価しないだろうか。
 スキーパの声が、高く高くなる。新子の心は、悔いと悲しさに、揺れ動かされていた。
 雨によごれた顔を、クリームでふき取り、鏡を出して、化粧を直そうと思ったが、鏡を見ることが、とても辛かった。
 主人とのことがあったために、夫人との間にわだかまりが出来たような気がして、夫人の部屋へ行くことが、とてもおっくうだった。
 しかし、もうやがて、夕食の時間である。謝りに行くのなら、今の内、でなかったら、今日中には、機会を逸してしまう。
 かの女は、やっと勇気を出し、自分で明るい気持を作りながら、夫人の部屋の扉をノックした。
「お入りなさい!」
 新子は、扉をそっと開けて、静かに足を踏み入れたが、容易に夫人の顔を振り仰ぐことが出来なかった。
「あら! 南條さんだったの!」珍しいことがあるもんだと、いわぬばかりの口調であった。

        四

「先ほどのお詫びに参りましたの。先刻は……」と、いい難きを忍んで、立ったまま丁寧に小腰をかがめると、夫人はひどく上機嫌で、
「まあ。こちらへ、おかけなさいましな。」と、招いた。
 夫人と相対して、長くはいづらいので、早くこっちの意を伝え、早くこの部屋から逃げたいので、
「はア。」と、ありがたく受けたものの、椅子にはかけず、その脇に立ったままで、「私、奥さまさえ、許して下さるのでしたら、やっぱりお子様達のお世話をさせて頂きたいと存じますのですが……」と、細々した声で、詫び入ると夫人はさも面白そうに、陽気な表情で、ながめながら、
「南條さん、貴女《あなた》、主人とこのことで、お話しになりましたの?」と、明るく訊ねた。
「はア。」と、思わず返事したが、すぐハッとなっていると、夫人はかまわず続けた。
「主人と、いつどこで、お話しになりましたの?」
 新子は、ギョッとして、眼顔で夫人の心中を探るように、顔を上げた。
「南條さん、貴女、さっきの夕立のとき、どこに行っていらっしゃいましたの。」友達のように、隔てのない物云いで、夫人の眼はいたずらっぽく、輝いていた。
「旧道の方へ出かけておりまして。」新子は、よんどころなくそう答えた。
「そうお。じゃ、その道で、主人とお会いになってお話しになりましたの。」
「はア。」退引《のっぴき》ならず、新子は真実の先端を、チョッピリ夫人に打ち明けた。
「そうお。」夫人の笑顔が、急に権柄《けんぺい》ずくな常の顔に変った。
 つと立ち上ってビクトロラの傍に行って、またスキーパの曲に、針をあてがうと、ビクトロラに寄りかかるような姿勢をしながら、嘲笑を浮べて新子に話しかけた。
「貴女の散歩は、時を選ばないのね。おかげで、主人は、ハンチングは風に取られたというし、そりゃビショぬれで、ひどい目に会って、帰って参りましたよ。」
 新子は、身内から、サッと血が引いて行くような感じだった。
「南條さん。さっきは、貴女からひまを取るというお話でしたが、今度は私から、今すぐひまを取って頂くことに致しますわ。どうぞ、出来るだけ早く、この家からお引き取り下さい!」
(|出て行け《ゲット・アウト》!)西洋の映画にあるとおり、扉《ドア》を指ささんばかりであった。

        五

 祥子《さちこ》の誕生した頃には、すでに前川夫妻の間には、大きな愛情の間隙が、出来ていた。
 一つの屋根の下に住み、外面はあくまで夫妻であったが、しかし良人《おっと》は、心の中で妻に、さじを投げていた。が、生得上品な性質である上に、外国に長くいたために、女権主義者《フェミニスト》であり、平和主義者であり、煩わしいことが、嫌いであるので年々悪妻の強さを発揮している綾子夫人を、当らずさわらず、取り扱うことに馴れてしまったのである。
 その上、愛児の生長が彼を家庭につなぎ止めているのと、酒をたしなまず、花柳界の趣味を解しないため、路傍の花に心を奪わるることなく、上部《うわべ》だけは善良な良人であった。だから、綾子夫人は、良人を信じ切り、良人で得られない刺戟は他の男性から求めていた。
 そこへ突然、新子が出現したのである。今までは(悪妻である。イヤな女性である。しかし、一旦結婚した以上、あきらめる外はない。こういう妻に対して、辛抱するのも、また一つの人生修行である)と、考えていた彼の眼に、たちまち華やかな一つの幻覚が浮び、遠く桃源の里を望み見たような心のときめき[#「ときめき」に傍点]を感じはじめ、生活が急に生々《いきいき》となって来たのである。
 が、不意に時節到来、今日お互に緊張し切迫した気持で、散歩しているとき、雷雨に逢い、平調を失った――あるいは平調を失う口実を得た彼は、思わず新子の顔を腕の中に抱いてしまったのである。
 にわかに、新子を愛人と云ってもよいほど、身近に獲《え》てしまった彼は、自ら非常な覚悟をしなければならなかった。
(このことで、新子を絶対に不幸にしてはいけない。どんな犠牲を払っても、あの人を幸福に!)と、彼はそう思った。彼が以前読んだ英国の小説に(恋愛はしてもいい。しかし、そのために相手を不幸にするな。それが、恋愛をする場合の男子の心得である)と説いたのがあった。
 妻には、絶対に悟られないように、そうして新子さんを出来るだけ、幸福にするように、こうなった以上、それが自分の義務だと準之助氏は考えていた。
 浴室《バス》から上って、セルを出させて着、食堂へ来てみると、幼い兄妹は、食器棚の後《うしろ》に付いている大きな鏡に向って、何か面白そうに騒いでいる。
 その子供達の姿を見ながら、自分とああなった以上、新子が自分の家族達と同じ屋根の下に住むことは、あの人にとって不愉快ではないかしら、よき愛人を獲たことは、子供達のよき家庭教師を失うことになるのではないかしら、……自分は結局子供達のもの[#「もの」に傍点]を奪ったことになるかしらなどと、思いはしきりに新子の上に置かれてあった。
 と、扉が開いて、夫人がはいって来て、席に着いた。見ると、彼女は外出着を着て、美しく化粧している。

        六

 良人は、妻に対して傷もつ脛《すね》の、いつもよりも優しく、
「どこかへ出かけるの……」と訊いた。
「ええ。ルーシイさんのところに、サッパー・ダンスがありますの。行かないかって、添田さんに誘われましたの、八時半頃に迎いに行くって、電話がありましたから、支度をしてしまったんですの、お食事少ししか頂かないわ。」夫人は、普段より、ズーッとおとなしい。準之助氏は、ホッと安心して、
「沢山集まるのかい。」
「ええ、フランス大使のお嬢さまや、松平侯爵夫人なんかいらっしゃるらしいわ。……貴方《あなた》は、この頃少しもお踊りにならないわねえ。ゴルフも一時ほど熱心じゃないし、今に肥っておしまいになるわ。」
「肥ったら、わるいだろうか。」
「肥った男なんて意味ないわ。私、嫌いよ。ダンスにも、お出かけなさいましよ。たまには。」
 と、ひどく愛想がよかったが、でも今宵誘おうとするのでもなかった。父母の会話を外《よそ》に兄姉達は、喰べるのに忙しい。殊に小太郎の健啖ぶりは、痛快と云うよりも、親の眼からは、あの小さい身体のどこへはいってしまうのかと、ハラハラするほどで、スープと肉と、その後のトルヴィルというケチャップで、色をつけた鳥めし[#「めし」に傍点]のような前川家自慢の料理を、大きい皿でおかわりをして喰べている。
「よく喰べられるね。お腹大丈夫かい。」と云う良人の言葉にも、夫人は興味がなさそうに、子供達の方は見やりもせず、レヴァ・トーストばかりを、少しずつ、ちぎってたべている。
 と、前庭に、自動車のはいって来る音がした。
「添田さんが、見えたかね。」準之助氏が問うと、夫人は笑いながら、首を振って、
「違うでしょう。まだ七時ですもの。」
「じゃ、誰だろう。お客さまか。」
「いいえ、私の用事。」と、答えたままだまってしまった。
 自動車は、五分間ばかり止っていたと思うと、すぐエンジンの音を立てて、軋《きし》み出る気配がして、やがて時々鳴らすサイレンが、だんだん遠くなって行った。
 軽井沢へ来てから、昼間あまり、かけずり廻るので、夕ご飯がすむ頃には、もう眠くなってしまう小太郎だった。
 眼の上を、ちょっと不機嫌そうにしかめながら、
「眠いよ! ママ、もうお湯にはいらなくてもいいでしょう。」
「あんまり食べるからですよ。ご飯中、ねむくなるなんて、そんなお行儀のわるいことじゃ駄目ですよ。顔だけでも、洗ってからお休みなさい。」という母に祥子が、
「ねえ、ママ、祥子、明日から南條先生に教えて頂いてもいいでしょう。」と訊いた。
「そんなことは明日になってからで、いいじゃありませんか。」ときめつけた。

        七

 母の不機嫌な顔を見て、祥子は危くベソをかきそうになりながら、
「だって、お熱なんか、もう先《せん》からないわよ。」と、云ったが、夫人はもう返事をしなかった。ベルを鳴らして、女中を呼ぶと、子供達を連れ去るように命じた。
 そして、手ずから良人に、コーヒを注いで、手渡しながら、
「私が、貴君《あなた》よりも善良な人間であることを、今日悟りましたわ。」と、子供が居なくなると、果然ねちねちした調子に変った。まさに遠雷の音をきくような気味わるさであった。準之助氏は、少しあわてて夫人の顔を見直した。
「貴君は、ウソつきですわねえ。少くとも、あの南條という家庭教師よりも……」
 たちまち、遠雷は頭上に来た。しかも、夫人は意地わるく、呆気に取られている良人の顔の前で、微笑した。
 準之助氏は、もう万事発覚したのかと蒼くなっていると、夫人は静かに、
「私やはり、家庭教師を替えることに致しましたわ。」
「どうして?」準之助氏は、思わずせきこんだ。
「だって、あんな散歩好きの人、ほほほ……困るわ。夕立の中で、散歩するような人、ほほほ困りますわ。貴君《あなた》も、ご一しょであったそうですね。そりゃ、偶然ご一しょになったのでしょうけれど、それを貴君が私におかくしになったことは、困りますわね。もちろん、あの女がそうさせるように、仕向けたんでしょうけれど……。ほほほほほ、私がやきもち[#「やきもち」に傍点]なんか焼いているとお考えになると、それは貴君の誤解ですわよ。私、貴君がまさかあんな女を、何とも考えていらっしゃらないこと、よく分っていますのよ。私、あんな人に対して、やきもち[#「やきもち」に傍点]を焼くほど、自分をみじめたらしく考えたくないんですの。その点では、充分貴君を信じていますわ。多分、私に対するお話をあの女となすったんでしょうね。それは、よく分っていますの。でも、私、貴君があの女と話をなすったことをおかくしになったということが、気に入らないんですの。……」
(悪魔が吹かせる風は、誇《プライド》という声がすると云うが、この女も悪魔だ!)準之助氏は、自分のした悪事を悔いるよりは、妻の人を人とも思わざる思い上った考え方を憎悪する心が、燃え上った。
 夫人は、平然として云いつづけた。
「夏休み中、家庭教師がなくっても、差支
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