肩が、その風で一斉にかしいだと見ると、大粒の雨が、樹々の葉を、まばらに叩いて渡った。
「これは、いかん!」
 準之助氏は、いささかあわて出して、
「さア降りましょう。ここで降られてはこまる。なるべく濡れないように、樹の下を歩くようになさい!」と、新子を促した。
 が、一町もそうして、坂道を下ったとき、吹き下しの疾風に、足許もおぼつかなく、二人は一時立ち止った。新子の着物の裾も袂も、千切れそうに、前へハタハタと吹きなびいた。髪が頬に、ベッタリとひきついた。その凄い風と同時に、一層陰惨な感じのする暗さが、周囲の繁みから湧き始めた。
「この峠の下に、外人の古い別荘が、二、三軒あったでしょう。あすこまで、とにかく降りましょう。そして雨宿りをさせてもらいましょう。サア。」と、促されて、また半町くらい、足早にかけ下った。
 一の疾風に、つづいて第二第三の疾風が、空に鳴り林に響いて、樹々の葉が、引く潮に誘われる浜砂のように、サーッと鳴って、一瞬底気味わるい静寂が、天地を領した。と、たちまち眼の前の、ぼーっとした仄暗《ほのぐら》い空を切り裂いて、青光りのする稲妻が、二条《ふたすじ》ほどのジグザグを、竪《たて》にえがいた。殷々《いんいん》たる――と云うのは都会の雷鳴で――まるで、身体の中で、ひびき渡るような金属的な乾いた雷鳴が、ビリビリと、四辺《あたり》の空気を震動させた。

        六

 新子は、天変地異に対する恐怖の念で、半ば意識を失ったような気持で、準之助氏の方へ駈け寄った。
「大丈夫! だいじょうぶ!」と、云う準之助氏の声も、次に、豆のはぜるような音を立てて襲って来た雹雨《ひょうう》の音に、かき消された。
 二人は、一心に、径《こみち》を下った。ゴルフ扮装《いでたち》の準之助氏は、何のことはなかったが、新子のフェルトの草履は、ビショぬれになり、白|足袋《たび》に雨がしみ入る気味のわるさ。もう、落葉松《からまつ》の林径《はやしみち》に出ているのであったけれど、雨はますます猛威をたくましくして、落葉松の梢は風に吹き折られそうに、アカシヤは気味わるいほど、葉裏をひるがえして、風に揺られ雨に痛振《いたぶ》られていた。まして、雑草や灌木は、立ち止るひまもないほど、雨と風とに叩き潰されていた。
「こちら! こちらですよ。」と、いつか鳥打《ハンチング》を失くしてしまっていた準之助氏は、もう両袖をじっとりと濡らしている新子の手を取って、その落葉松の林の中に、見捨てられたように、建っている別荘の軒先にかけ込んだ。
 樹の細い梢など、あわれにも吹き千切られて、投槍のように飛び、樹の葉はクルクルと、不吉な紋様をえがきながら、舞い上り舞い落ちた。
 雨の水沫《しぶき》は、別荘の軒下にまで、容赦なく吹き込んで、雷はしきりなく鳴り渡って、絶え間なくあたりの空気を震わせ、嵐のシンフォニイは、今や最高潮に達していた。
 別荘の扉《ドア》を、ほとほとと叩いていた準之助氏は、にわかに元気な声をあげた。
「貸家だ、貸家だ。ここにハウス・ツー・レットとかいた紙が、剥がれている。これはちょうどいい。ちょっと失敬しましょう。ここじゃ水沫がたいへんだ。待っていらっしゃい! ここは開かないから、僕、裏へ廻って入口を見つけて来ますから。」と、雨の中へ飛び出して行った。
 新子は、夕立に悩まされながら、しかしそのために、夫人に対する感情の名残が、吹き飛ばされ、洗い去られたような気がした。そして、今までかなり遠い距離に立っていた準之助氏と、お友達か兄妹かのように、手を取り合って、自然の暴威と戦っていることが、何か物めずらしく、物新しく、びんのおくれ毛が、頬にくっつくのを気味わるく思いながらも、心は興奮し、はずんでいた。
 間もなく、傍の窓|硝子《ガラス》を、風雨に抗しながら、わずかに開けた準之助氏が、
「玄関は、内から鍵がかかって、とても開きそうにもありません。貴女は裏口から廻っていらっしゃい!」と、叫んだ。

        七

 新子も、軒下に立ってることは、とても辛かったので、いそいで軒つたいに、雨を避けながら裏口の方へ廻った。
 と、勝手口は閉《ふさ》がっていたが、そこから一間ばかり向うの半間ほどの入口の扉《ドア》が開いていた。そこからはいってみると、バスと洗面所《トイレット》との間の廊下で、空家らしい気持の悪い温気《うんき》をたたえて、壁や天井が薄白く光っている。外人が建て、外人が住んでいたらしく、畳の敷けそうな部屋は一つもなかった。
 食堂らしい部屋を通りぬけて行って、準之助氏の居ると思われる部屋をソッとのぞくと、そこは、サロンらしく壁に薪をくべるらしい大きい炉が切ってあり、中は山小屋《カッテイジ》らしく作られており、腰の低い窓が、いくつか開《あ》いている。
 その一つの窓を開けて外を見ながら立っている準之助氏は、
「やあ! よく降る!」と、盛んな自然の大暴れに、嗟嘆《さたん》の声をあげていた。
 家の中は、不気味に薄ぐらかった。椅子も卓子《テーブル》もなく、ただ粗末な食堂用らしい曲木《まげき》細工の椅子が、ただ一つ塵にまみれて、棄て置かれてあった。
 この薄闇は、普通の夜の暗さなどよりも、ずっと気持がわるかった。そこここの隅々から、奇怪な幻像でもがうごき出しそうな気味わるさを持っていた。
 ある恐怖と圧迫を感じて、新子は扉《ドア》口ではいりわずらっていた。
 その上、ときどき窓からサッと流れ入る電光の紫線は、いよいよ部屋を物すごく見せた。
 新子が、そこに立ちわずらっているとき、電光の閃《ひらめき》とほとんど同時に、硝子《ガラス》板を千枚も重ねて、大きい鉄槌で叩き潰したような音がした。たしかに、近くへ落雷したのだと思うと、新子は心が一層寒くなった。
 準之助氏も、扉《ドア》口に人形のように、息を呑んで、立ちすくんでいる新子を見ると、彼もまたある胸苦しさを感じているらしく、すぐには呼び入れようともしなかった。
「こわいわ!」だまっていると、息づまりそうなので、新子が勇気を出して、口を開いた。
「僕もいささかこわいですよ。中へおはいりなさい。一緒に居ましょう。」と、準之助氏は、窓ぎわから離れた。
 二人は、両方から部屋の中央に歩み寄った。
 一足先へ、この空家にはいった準之助氏の心には、新子に対するなまめいたある感じを抑えることが出来なかった。
 嵐に包まれた家の中に、二人ぎりでいる。お互に、身近く立っていると、準之助氏は、さっき坂を下《おり》るとき、手を取ってやった新子の雨にぬれた生暖かい肌の感触が、ゾッとするほど、心の中に生き返って来た。
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  家庭の嵐




        一

 夕立は、その始まり方の凄《すさま》じさ、速《すみや》かさと同じように、幕切れもアッケなく早かった。
 雨は水沫《しぶき》だけのように、空一面に、細《こまか》く粉のように拡がった。風も、それに準じて、勢いを収めて、見る内に、山の頂きには青空が顔を出した。
 雷の八つ当りは、もう大丈夫だろうかと検《ため》すように、森の中でかっこうがホルンを吹奏した。
 天と地との間には、もう鬱積がなくなったように、快い風と光とが躍りはじめた。
 見事なトサカを持ったレグホン種の真白い雄鶏《おんどり》が、納屋から飛び出して、ときを作った。
 白い綿雲が邪魔扱いにされて、低い空をグングン流れて行く、一番いたぶられた月見草や芝草が、綺麗に露で化粧をして、あまやかな土から、徐々に頭をもたげかけている。
 別荘の窓が、一つ一つ開けられる。
 綾子夫人の部屋からは、スキーパの魅惑的な恋の歌が、流れ出す。階下《した》の子供部屋から、小太郎が、

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雨、雨、降れ! 降れ!
母さんが
蛇の目でお迎い嬉しいな。
ピチ、ピチ、ジャブ、ジャブ、ラン、ラン、ラン。
[#ここで字下げ終わり]

 と、歌いながら飛び出して来た。
 準之助氏は、水を吸って重くなった靴を、三和土《たたき》に脱いだ。靴下から湯気が出ている。
「やア。パパのびしょぬれ! 野良犬みたいに、なっちまった!」
 小太郎の歓声に、準之助氏は、人知れず頬を染めて苦笑しながら十分ばかり先へ帰した新子が、目立たないで帰れたか、どうかを考えながら、二階へ上って行った。
 レコードが、ピタリと止まると、笑った夫人の顔が、廊下へ現れた。
「まあ! たいへんね。どこで、雨にお逢いなすったの。」
「クラブ・ハウスから、一番遠いコースにいたんだよ。早く引き上げればいいやつを……」と、何気なく弁解した。
「あら! じゃ、やっぱりゴルフに行ってらしたの。杉山、どうしたんでしょう。折角、車を持ってお迎いにやったのに。」
 準之助氏は、ギョッとして思わず、妙な顔をした。
「杉山は、キャディに訊いても、ハウスの人に訊いても、今日はお見えにならないと云ったって、帰って参りましたのよ。」
(失敗《しま》った! 妻の不断に似合わず、いやに気のついたことをしたもんだ。これじゃ、ゴルフに行ったと云うんじゃなかった!)と、後悔したが駟《し》も及ばず。

        二

「杉山の探しようが、下手なんだ!」と、強引に嘘を云って、部屋へはいろうとすると、夫人は、
「早く洋服をお脱ぎになって!」と、追いかけて来ながら、「ハンチングも、大変でしょうね。どこへお脱ぎになった!」と、訊いた。
「あの強い風にたまるものか。持って行かれてしまったよ。」
「夕立の中を、よっぽど歩いていらっしったのね。妙な方。」
 さりげない夫人の言葉にも、浄玻璃《じょうはり》の鏡をさしむけられたようにすべてを知っていられるのではないかと不安だった……。
 最後の電鳴のはげしさに、思わずすがりついた新子を掻き抱くと、どちらからともなく、唇を合わせてしまった楽しい秘密も……。
 準之助氏は、身体全体が、カッと熱くなって、いそいで己れの部屋へはいると、扉《ドア》を立ててしまった。


 新子が濡れた足袋《たび》を脱ぐと、十の指は、爪まで色を失って、冷たく、凍えていた。手の指も、ハッと呼吸《いき》を吹きかけないと、自由にならないほど、冷え切っていた。高原の夕立は、都会のそれとは違って猛烈で、雨が冷たかった。準之助氏より、十分ほど早く帰って来た新子は、和服でもありかなりひどく濡れてしまっていた。
 女中達に騒がれるのを厭《いと》って、コソコソと自分の部屋へ上って来たのだけれど、いくら注意して歩いても廊下に、雫《しずく》の落ちるほどあさましく濡れた我身であった。
 手早く、銘仙の着物に着換え、帯もシャンと締直し、髪も手がるに束《つか》ねなおし、気を落ちつけるように机の前に、坐った。
 途端に、聞き馴れたスキーパの独唱が、夫人の部屋から聞えて来た。新子の好きな、そして美沢も愛好している「グラナダ」という、古いレコードである。
 何という不可思議な心理だろう。新子は、三十分前の自分の気持が、自分でも分らなかった。美沢とは、二年近い交際で、最初から好きで、だんだん愛するようになり、二人ぎりで居る機会も多かったにも拘わらず、美沢が自分の手を握ったことだって、二、三度しかないのに、……準之助氏は、さのみに愛してもいず、一言だって愛を語ったわけでもないのに、どうして、あんなに脆《もろ》くも唇を許してしまったのだろうか。
 新子は、自分の気持が、不可思議でならなかった。やはり、あんな大金をもらったという弱味が、いつかしら自分の心を、あの人の方に傾けていたのかしら。新子は、そう思うと、急に悲しくなった。

        三

 言葉に出して愛をささやかれ、言葉に出して愛を求められる場合は、女性の心は、ピンと張り切っていて、理性が働き感情が冴えて、容易に肯《うなず》かないものであるが、すべてが行動で、その時と場合との機《はず》みに乗って来られたのでは、ちょうど先刻の夕立のように、身を避ける間もなく、濡れてしまうのではないかしら。
 準之助氏も嫌いな人ではない。しかし、ああも簡単にはと思うと、新子は、自分
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