うも円転滑脱、弁舌さわやかに、自分の立場を明らかにした以上、こっちからそれを崩しにかかることは、たいへんである。下手に、かかって行けば、たちまちヒステリックに不貞くされてしまうに違いないのだ。夫人が、まだ表面だけでも体裁のいいことを口にしているのを、よいことにして、新子を引き止める承諾を求めるのが肝腎だと考えた。
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雷雨の中
一
準之助氏は、もの静かに云いつづけた。
「しかしね。かわりの先生を雇うにしたって、すぐにいい人はないに定《きま》っているし、折角小太郎も勉強ぐせが付いたのだし、ともかく夏休み中だけでも、南條さんに居てもらおうじゃないか。」
「ええそりゃ、あの人が私に謝って来さえすりゃ、今日のことは何も無かったと思ってあげられるわ。」と、夫人は大いに寛大なところを見せた。
夫人も、新子が居なくなると、折角自分にまつわらなくなった祥子や小太郎が、何かとうるさくなるに定《きま》っているし、それに八月の十日頃に一度、一人で東京へ遊びに帰ろうと思っているので、その留守中新子がいた方が、子供のために安心だと考えているのである。
夫人の言葉を聞くと、準之助氏の表情は、急に明るくなって、
「どうせ、よすにしたところで、南條さんは僕のところへ、挨拶に来るだろうから、そしたら、お前の意のあるところをよく伝えて……」
夫人は、もう面倒だというように、小さい欠伸《あくび》を噛みころしながら、
「でも強いて居てくれなくっても私はいいんですよ。」と、まだ嫌がらせをいっていた。
「お前|今日《きょう》ゴルフへ行くんだろう。」と、準之助氏は、それとなく気を引いてみた。新子を説得するには、相当曲折があろう。それには、夫人が家に居ない方がいいと思ったからである。
「今日はよそうと思っていますの!」
「なぜ? 今日、村山夫人と勝負をつけるのじゃなかったのか。」
「あの人のお相手は、真平だわ! あんな汚いプレイをする人きらいだわ。」
「たいした気焔だね。」
「貴君《あなた》一人でどうぞ!」
夫人に、そう云われたとき、準之助氏は新子と話をすることについて、別のことを考えついた。
「じゃ、僕一人で、行って来るよ。」そう云って、準之助氏は夫人の部屋を出た。
自分の部屋へ帰ってみると、事件の発端を作った小太郎が、所在なさそうに、大きな椅子に、足をブランブランさせながら、悄気《しょげ》かえって、父をむかえた。
「パパ!」
「何だい。」
「南條先生泣いているよ。泣いちゃったよ。」
「先生どこに居る?」
「お部屋にいる。僕、先生のお部屋をのぞきに行ったら、お机のところにこうしているの、きっと泣いているんだよ。ママこわいから厭さ。」
「お前が、余計なことを云うからいけないんだよ。」
「だってさ、南條先生、東京へ帰ってしまうだろう。そしたら、僕はかまわないけれど、祥子が困るでしょう。」分別のある大人のような口調だった。
二
新子は、部屋に帰ると、一しきり口惜《くや》し涙にむせんでいたが、それが乾く頃には夫人に対してあまりに思い切った態度を取ったのを、後悔していた。
夫人との間には、何の貸借《かしかり》もないが、準之助氏に対しては、そうは行かなかった。姉のために、あんな大金を借りたばかりである。相手が、どんな好意で貸してくれたにしろ、自分は月給の中から、いくらかずつでも払おうと思っているのに、ここで夫人と争って出てしまえば、あまりに義理が悪すぎる。この家へはいる時、路子さんからも、特別に注意されていたのに、もっと隠忍すべきであった。
準之助氏に、何と云い出そうかと、思い悩んでいたので、部屋にそっと、はいって来た小太郎の手が、肩にかかるまで気がつかなかった。
「はい、先生! これパパから。」肩に置かれた小さい手から、眼の前に白い紙片が降った。
「まあ! 小太郎さん。」振り向いた新子の顔が、案外笑顔であったので、小太郎も笑った。
「さよなら。」でも、小太郎はまだ少し、テレていると見え、ふざけたおじぎ[#「おじぎ」に傍点]を一つして、すぐ部屋を駆け出して行った。
新子は、レター・ペイパーを二重に折った書付を開けてみた。
今日のことごかんべんありたし。なお、お願いしたきことあり、今すぐサナトリウムの前にて、お待ち下されたし。
と、書いてあった。
このわずかな文字は、彼女を生々とさせた。もうすべてのいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を知っている準之助氏が、自分を引き止めてくれるのだろう。もし、そうなれば、自分も難きを忍んで、夫人に謝りに行こう。彼女は、準之助氏が自分を部屋へ呼ばないのは、夫人を憚《はばか》っているためであろうと思った。その方が、自分も話しやすい。
彼女は、コンパクトを出して、涙のあとをザッとかくしてから、部屋を出ると、別荘の裏口から森を抜け、草の小路を真直ぐに、外人の経営している療養所《サナトリウム》の赤い建物の方へ歩いた。
アカシヤの並木がつづき、近く小川のせせらぎが聞えて来る。夏の午後とも思えない静かさである。ここまで、歩いて来ると、新子の気持もずうっと、落着いて来た。
その辺《あたり》を行きつもどりつ歩きながら、そのあたりの風光から、かの女は非常に佳い音楽や、よい絵画や、よい物語を感じていた。美沢さんなどは、このあたりを、どんなに欣ぶだろうかと考えたくらい、すっかり平静な彼女になっていた。
三
彼女が、アカシヤの幹にもたれて、今来た道をふり返ったとき、ゴルフ・パンツに鳥打《ハンチング》の紳士が歩いて来るのを見た。それが、準之助氏の若々しい姿だと気づいたとき、新子の頬に自然な微笑が溢れた。
「お待たせしましたね。」と、準之助氏は近寄って来て、彼女とさし向いにちょっと立ち止まると、
「あちらへ歩きましょう。」と、新子を誘った。新子も、うなずいてアカシヤの並木道を、山手《やまのて》の方へ並んで歩き出した。
準之助氏は、しばらくの間無言だった。
右側の林の中を、見えがくれに小川が流れている。時折、鶯《うぐいす》が鳴き、行く手の道を、せきれい[#「せきれい」に傍点]が、ヒョイヒョイと、つぶて[#「つぶて」に傍点]のように横切って飛んだ。
N博士の別荘から、左に折れると、落葉松《からまつ》の林の間に、外人の別荘地が少し続き、やや爪先上りになった道を、峠の方へただわけもなく歩きながら、準之助氏はまだ黙っていた。
黙っている相手をどう扱っていいか、新子はやや困惑しながら、しかし自分の方から話しかける場合でないので、やっぱり黙って歩いた。
峠道にかかると、楓《かえで》や樅《もみ》やぶな[#「ぶな」に傍点]の樹などが、空もかくれるほど枝を交していて、一そう空気がひんやりとして陽の色も暗くなった。
ポタリと頬に露が、
「雨じゃないでしょうか。」新子は立ち止った。
「いや、樹の雫《しずく》ですよ。お疲れになりましたか。」と、準之助氏は立ち止って、おだやかに云った。
「いいえ。」と、新子は首を振った。
静かな空気の中で、パッとマッチの火が白く光った。準之助氏は、うまそうに煙草を吸いながら、
「いかがです、ずーっと、このまま子供達の面倒を見て下さいませんか。」と、云った。
「はア。」
新子は、準之助氏の長い無言の散歩が、何を意味していたかが、そのときハッキリと分った。
主人として、新子の釈明も求めず、また良人《おっと》として妻のために弁明もすることなく――そういうことは、新子に不愉快な感情を再現させることだと知って、ただ新子の気持をいたわり、落ちつかせ、平静をとりもどすまで、ブラブラと散歩をして、折を見て結論だけを云った準之助氏の言葉を、新子はうれしく思った。
「妻は、もう何でもありませんよ。貴女《あなた》も、さっきのこと、もうお忘れになって下さいませんか。」
「はア。奥さまにお詫びに行こうと思っておりますの。」
「そうですか、それはどうもありがとう。それでホッとしましたよ。」急に、準之助氏は、明るく微笑した。
四
「ほんとうに居て下さるでしょうね。大丈夫でしょうね。」準之助氏は、もう一度くり返した。
「私の方でおねがい致すことですわ。」新子は、こんなに甘えさせられては、いけないと思いながらも、嬉しくなった。
「貴女が、いらっしゃらなくなると、小太郎も祥子《さちこ》も、ガッカリしますよ。僕もガッカリします。どうぞ、これからも、つまらないことは、気にかけないで、のびのびと貴女らしく、子供の面倒を見てやって下さい。どうぞ、これは改めて僕のお願いです。」若者のように、情熱のこもった言葉だった。
「お話は、これですみましたが、ついでに、この次の丘の上まで行きましょう。軽井沢が一目に見えますよ。おつかれでなかったら、ご案内しましょう。」にわかに、少し硬くなった声が――しかしまことに、何気なく新子を誘った。
準之助氏は、新子が、病的にわがままな夫人と、いつかきっと衝突することを心配していた。しかし、聡明な新子のことだから、うまくバツを合わせてくれるだろうと思っていたのが、思ったよりずーっと早く、事件を起してしまった。小太郎から、事件のあらまし[#「あらまし」に傍点]を聴いたとき、これはいけないと思い、新子がこのまま去ってしまうことを考えると、身内のどっかを抉《えぐ》り取られるような気がした。それほど、新子はもう、彼の心の中に深くはいっていた。
だから、新子と会って、新子に止《とど》まってくれるように頼むまでは、何かが咽喉下に突っかけて来ているような感じだったが、こんなに簡単に話が付いてみると、すべてがそのまま楽しい散歩に変っていた。
妻が、やかましい権女《けんじょ》であればあるほど、その眼を忍んで、含みのある青い色のうすものに、絹麻の名古屋帯を結んだスラリと伸びた、しかし、どことなく頼りなげな新子と、二尺と離れず歩いていることが……準之助氏にとって、何か恐ろしい何かすばらしい冒険のような気がして悲調を帯びた彼の恋心を深めるのであった。
二人はあまり、お互同士を意識していたので、やがて間もなく雨となる前ぶれのように、霧が一さんに、峠の樹々の間を薄白く、駈け降りているのに、気がつかなかった。
準之助氏は丘に上ったら、新子と一しょに見下す軽井沢が、どんなに美しいだろうかと考えていた。
新子は、準之助氏の何かしみじみした、いつもふっくりと、自分の為に、冷たい風を遮ってくれるような態度を、身に浸みてありがたく思った。が、しかし、それと同時に、なんとなく息づまるような、勿体ないが迷惑だという気持がしないでもなかった。それは、こうした場合における年齢の相違から来る悲しい間隙とでもいわれようか。
五
そこらあたりからは、いよいよ深く樹が茂り合っていて、太い幹に、山葡萄やあけび[#「あけび」に傍点]の蔓《つる》が、様々な怪奇な姿態でからみつき、路傍の熊笹や雑草も延びほうだいに延びている。と、ザッザッと異様な音がしたので、新子がドキッとして、思わず準之助氏の方へ肩を寄せると、径《こみち》のすぐ傍から、一羽の雉子《きじ》が飛び出した。雉子の方でも、驚いたらしく、バタバタとたちまち、繁みの奥へ低く飛んでかくれた。
「まあ! 雉子なんでしょうか。」新子の声が、思わず明るくはずんで、巧まぬ媚《こび》を含んでいた。
「雉子ですよ。この辺には、雉子や山鳥が時々いますよ。僕達の散歩を歓迎してくれたのでしょう。心憎き雉子ですよ。」
「いっそ、飛び出すなら、傘を持って来てくれると、よかったのに。もう、引き返したら、よろしいのじゃないでしょうか。何だか、夕立になりそうでございますわ。」新子も、少しふざけながらいった。
「はははは。でも雉子の貸してくれる傘なら、山蕗《やまぶき》の葉かなんかで、軽井沢の夕立の役には立ちませんよ。夕立になるのかな。」と、不安そうに、樹の間をすかして空を眺めた準之助氏の顔にサッと一陣の風が吹き降して来た。樹々の
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