口を出して、
「野球なんかより簡単だよ。すぐ分るよ。カウントの取り方、僕教えるよ。」と、ませた口のきき方をした。
「でも、小太郎さんは、また何かを何かと間違えるんじゃなくって! おほほほほほ。」とからかうと、
「やい! 南條先生の意地わる!」と、いって笑いながら、武者振りついて来た。
三
新子も、祥子《さちこ》が病気になって以来、一度行ったことのあるテニス・コートの前のブレッツで、クリームを買いたいと思いながら、そのままになっているので、同行することにした。
三人は、森を抜けて、陽のよく当る白い径を、旧道の方へ歩いた。
彼女の愛人の美沢は、早く父を亡くして母親育ちであるだけに、お洒落《しゃれ》な細かい動作が、身体にしみついていて、いかにも美青年らしく見えたが、この青年はいかにも健康な、スポーツででも鍛えたらしい若人という感じがした。
話しぶりも、明るくて、気が置けなかった。
新子も、本来の明るいのびのびした気持に還っていた。
旧道に出て、洋服屋や、野菜店《ヴェジタブルショップ》や、家具店などの小さな街を歩きながら子爵は、
「南條さんは、僕の名前ご存じないでしょう。木賀逸郎といいます。どうぞよろしく。」と自分で正式に紹介した。
「はア、私は南條新子と申します。どうぞよろしく。」と、新子がすっかり親愛の度を深めた微笑で、答えると、小太郎が傍《そば》から、
「逸郎兄さんは、愛嬌がいいんだってさ。」と、いったので、子爵は急に真赤になって、
「小太坊、生意気なこというな!」と云った。
「だって、ママがパパにそう云ったんだものオ……」と、小太郎はすましていた。
コートのスタンドは、ほとんど外人ばかりだった。
子爵は、知合いらしい亜米利加《アメリカ》人夫婦と何か隔てなく、話し合っていた。新子は、子爵の英語を相当なものだと感心して聴いていた。
新子は、富も位置もあり、教養もあり、容貌にも健康にも恵まれている青年が、前川別荘に来て、高慢な夫人の、相手をしているなど、本当に夫人が好きなのであろうか。それとも、愛人がないので閑暇《ひま》なんだろうか。どちらにしても、何だか少し気の毒のように思った。
しばらく見ていると、青年はズボンのポケットから新しい四角にたたんだ麻のハンカチーフを出すと、新子に渡して、
「顔を掩《おお》うていらっしゃい。洋服ならいいけれど、和服で日焼けなさると、お困りになるでしょう……」といった。
新子は、笑いながら、大きなハンカチーフを拡げて、頭から天蓋《てんがい》のようにしながら、
「安心しましたわ。貴君《あなた》には、やっぱり愛人《アミイ》がおありになるんだわ。」と、初めて、本当の親しみを見せて、スパリとした口のきき方をした。
「なぜです。」青年は、驚いたように訊き返した。
「だって、レディにご親切だから……」
「じゃ、今までは僕に愛人なんかいないだろうと、心配していて下さったんですか。」
「だって、あまりお閑《ひま》のように、お見受けしましたの、ほほほほ。」
いたずらいたずらした新子の眸《ひとみ》が、相手の言葉を誘い出すように輝いた。
四
試合《トーナメント》が了《おわ》ると、小太郎がアイスクリームを食べたいというので、三人はブレッツに寄った。そこで、新子はクリームを買った。
卓子《テーブル》に、子爵は新子とさし向いに坐ると、キャメルに火をつけながら、
「貴女がさっき愛人《アミイ》とおっしゃったのは、愛人か許婚《いいなずけ》かのつもりで、おっしゃったのですか……そんな深い意味じゃないんでしょう。それなら、いろいろありますよ。」
「ほほほほほ。だから、安心したと申し上げたじゃありませんか。」
「何もなかったら、心配して下さるんですか。」
「ええ……」といって、すぐ(だって、前川夫人のお相手なんかだけじゃ、お可哀そうですもの)と、いおうと思ったが、小太郎が居るので、笑いながら黙ってしまった。
「僕の方こそ、心配していますよ。貴女のような方が、こんな腕白坊主の相手ばかりしていらっしゃるんだったら……」
「まあ。ひどいことをおっしゃるわねえ。ねえ、小太郎さん!」
「逸郎兄さんは、男の人には、口がわるいんだよ。僕だって、男だろう。」と、小太郎がアイスクリームを、スプーンで口に運びながら、大人のように云ったので、新子も木賀も笑い出してしまった。
「私には、小太郎さん達をお預りしているのが、ほんとうに楽しい仕事なんですもの。だから、案じて頂かなくてもよろしいんですの。」と、新子が微笑で云うと、
「うむ。うむ。」と、子爵は、ちょっと真面目な表情になって、「貴女は随分勝気でいらっしゃいますね。」といった。
「なぜでございますの。」
「前川夫人《マダム・マエカワ》に泣かされないから、あの人に毅然として対抗しているから。」小太郎に分らないようにいった。
新子は、子爵の現実を避けない愉快な物いいに、明るくのびのびと笑った。子爵はつづけて、
「でも、それだけが楽しみじゃないでしょう。愛人《アミイ》だって、お在りになるんでしょう。」と訊ねた。
「ございましてよ。貴君のように複数でなく、単数で……ほほほ。」
「は、はア。これはたいへん失礼致しました。失礼ですが、先刻のハンカチーフをお返し下さいまし……」
相手のあざやかな応酬に、新子はポッと赤くなりながら、さっきから返しそびれてキレイに畳んで懐《ふところ》にしまっていたハンカチーフを返した。
三人は、やがてブレッツを出た。
若い男と女との会話は、全く磁石のような力を持っているものだ。まして、新子の情感に溢れたほがらかな言葉づかいは、相手にひしひしと浸み込んで行くような性質のものだった。
だから、わずかの間ではあったが、子爵の心には、新子に対する深い親愛と好意とが湧き上った。
しかし、最後の言葉が、いけなかった。単数の愛人《アミイ》あり! それは(われに、近寄り給うな)と、いう警笛《アラーム》のようにも聞えた。
五
子爵は、歩きながら考えた。単数の愛人って、誰だろうか。まさか、準之助氏ではあるまい。でも、昨日《きのう》、新子が負傷した時の、準之助氏の狼狽《うろた》えかたは、少し可笑《おか》しかった。それに、新子を見るときの情熱の籠った双眸! でも、まさかと子爵は、そんな考え方を捨てようとした。
両側の草原から、絶えず、清々しい香りが立ち上って、胸を気持よく柔らげるのであった。
小太郎が、大きい揚羽の蝶を見つけて、草原の中へ十間ばかり追いかけて行った。
しばし黙っていた木賀子爵は、その機会に、
「マダムは、難物ですが、前川氏は、きっといい味方になってくれるでしょう。あの人は、元来|女性尊重主義者《フェミニスト》だから……」
「まあ、なぜ……貴君《あなた》はそんなことをおっしゃるのですの。」
木賀の云い方に、すぐ賛成するかと思った新子が、思いがけなく反撥したので、木賀は大きく見張った新子の視線を、あわててそらしながら、
「僕が、あの人をほめては、いけないんですか。」と、タジタジしながら云った。
「いいえ。お賞めになっても結構ですわ。でも、私とマダムと対立でもしているようにお考えになってはいやですわ。」と、新子は云った。
木賀は、新子の慎みぶかい予防線に、感心しながら肯いた。
新子は、自分が準之助氏から、ある危険を感ずるように、他人の眼にも、それが露わに映っているのかと思うと、いやだった。
だから、子爵のそうした観察にハッキリ抗議したのである。
きのうなんか、わずかに傷ついただけなのに、あの方はあんまり、あわてすぎていた。
(やっぱり、あんな不当な謝礼は、頂くのではなかったかしら)金銭の収受は、男女の間をたちまち接近させるものではないかしら、と思ったりした。
白樺の繁みをぬけて、三人が母屋に近づいた時、バルコンの上で、お茶を飲んでいる準之助夫妻を、小太郎が、いちはやく見つけて、
「パパとママが、あすこにいるよ。」と、遠くから指さした。
前川夫妻は、まだこちらに、気が付かないようだった。
「とても、円満な夫婦のようじゃありませんか。」と、木賀子爵が、微苦笑しながら云った。
「ご円満なのでしょう。」と、新子は、ちっとも皮肉を交えずに云った。
「僕行って、お茶をいただく!」小太郎は、一散に建物の方へ急いだ。
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姉のために
一
熱は冷めても祥子《さちこ》は高熱が続いた後なので容易に床を離れることが出来なかった。
それだけ、退屈し切っていて、新子が病室へはいって行くと、すぐねだって、幼年雑誌や漫画の本を読んでもらった。その朝も、新子が病室へはいると、祥子は待ち兼ねていたように、
「ご本よんで!」といった。
「今日はもうよむご本ありませんよ。」
「動物園見物。」
「でも、これは三度目でしょう。」
「三度目だっていいの。」
「じゃ、およみしますわ。」新子は、枕元に坐って、読みはじめた。
サアどっちからみる? ぼくライオンからみる。あたしゾウから。ゾウともおし。僕等はシシから。あらシシは十六ばんめにみるものよ。アア四四十六か。
祥子は、もういく度も聞いた洒落《しゃれ》であるのに、ニコニコうれしがっているのであった。ちょうどその時、扉《ドア》が開く気配がしたので、新子が顔を上げると準之助氏がはいって来た。
「また、動物園見物か。何度目だい? お前が飽きなくっても、南條先生は飽き飽きしていらっしゃるだろう。あんまり、先生をいじめちゃいけないよ。」準之助氏は、にこやかに祥子を叱った。
「先生だって、面白いのよ。ねえ、先生!」
「ええ。とても。」と、新子も真面目に肯いて読みつづけた。
準之助氏は、本を読んでいる新子と、仰のけに寝ながら、新子の読む声に聞き惚れて、美しい黒目を一章一章に、うごかしている祥子とを、何か楽しい観物《みもの》のようにしばらく眺めていた。
そのとき、あわただしい足音がして、扉《ドア》がノックされて、
「どうぞ!」と、新子が答えるのも待たず、女中がはいって来て、新子に電報を手渡した。
(今頃、何の電報!)と、思う胸騒ぎを、じっと抑えて、読み下すと、
[#ここから1字下げ]
アスマデニ三〇〇エンツゴウシテクレ、イノチガケニテタノム、アネ
[#ここで字下げ終わり]
と、いう電文だった。
姉の唐突な無法な依頼に、呆れて新子の顔は、サッと蒼ざめた。
一昨日の金は、着いたのだろうか。着いたとしたならば、その上に何の急用あっての金だろうか。恐らく母が入用《いりよう》の金ではあるまい。姉一人でいる金としたならば、一体何の金だろう。昨年あたり新聞でよく見た、左傾した女の人達が無理算段の金を作るように、まさかあの姉が急に左傾して、党へ出すとかいう金をでも作るわけでもあるまいに……。
「どうなすったんです。南條さん!」準之助氏に、声をかけられて、新子はハッと狼狽した。
「いいえ、つまんない用事なんですの。電報なんか打たなくっていいことなのですの、……ご免なさい祥子さん。先を読みましょうね。」
ずいぶんながくかんがえてたのね。だから、カンガエールカンガエールカンガールて、だれいうとなしにそういってしまったのさ……
だが、もう新子の声は、かすかにふるえて漫画の説明を読むには、一番不適当な声になっていた。
二
祥子も、新子の声のふるえに気がついたと見え、もう漫画からは眼を離して子供らしく気づかわしげな眼を、新子の顔に向けていた。
新子は、それでも祥子の注意を絵本に向けようとあせって、また一ページばかりも、読みつづけた。
「南條さん。本は、それくらいにしてどうですか。ねえ、祥子もういいだろう。」と準之助氏が口を出した。
「ええ。」と、祥子も父の意を汲んで素直に、うなずいた。新子は泣きたいような気持で、本を下に置いた。
「南條さん、不意の電報なんて、よくないことに定《きま》っているものですが、一体どういう報せなん
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