て差支えあるまいと、サリサリと封を切ってみると、手紙と共に数枚の為替《かわせ》証書だった。
そのとき、誰か部屋にはいって来る気配がしたので、圭子は咄嗟《とっさ》に手紙を懐《ふところ》に入れてしまった。半ば発作的に。後《うしろ》の襖が明いた。母ではなく、さっきから勝手で、顔を洗っていた妹の美和子だった。
「お姉さま、どうしたの。お母さまを怒らしたの? ご機嫌がわるいったらないわ。」
妹の爽やかな調子に、圭子はいましがたの自分のあさましい所業に、面《おも》ぼてりがして、一時に身内がカーッとほてって、返事をしないでいると、
「あら、お姉さまも時雨《しぐれ》ているのね。お母さまが、あの調子じゃ、私今日少しお小遣いをねだろうと思っているのに、絶望だわ。お姉さま、三円かしてくれない?」
「駄目だわ。私だって!」やっと声が出た。
「え、駄目なの――切符を、十枚も売って上げたのに、少しコミッションよこしてもいいわ。」
美和子は、美和子としての不平をいいながら、タンゴのステップで、クルクル廻りながら、圭子の向いに、どしんと坐った。
「それどころじゃないわよ。研究会が火の車で、マゴマゴすると、小屋代が払えない始末よ。」と、いい捨てながら、圭子は二階へ上った。
自分の部屋へはいると、さすがにふるえる胸を制して、為替をしらべてみた。金額二十円の小為替《こがわせ》が、都合七枚、新子らしく、便箋へ簡明に走り書がついている。
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こちらへ来ると、すぐお嬢さまが、ご病気で、徹夜で看病しました。これを、ご主人が欣《よろこ》んで下さって、沢山のお手当をいただきました。これは、どうぞすぐ貯金へ。ご主人へ、お礼状などは、お出しにならないように、そんなことはお嫌いな方ですから。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]新子
母上さま
六
圭子は悪いと思いながらも、天の与える金のような気がして、胸が躍った。
(前川さんなんて、さすが大ブルジョアだけあるわ、百円や五十円なんて、私達の五円か十円かなんだわ、五十銭か一円なんだわ。新子ちゃんは、前川氏夫妻にとても気に入ったのに違いないわ。きっと、これは当座のご褒美《ほうび》なんだわ)と、圭子は思った。(それにしても、このお金は母には思いがけない金なんだもの、私がとにかく借りて使っても、後で新子ちゃんの諒解《りょうかい》さえ得れば、それでいいんだわ)大それたという気がないでもないのを、圭子は強いてまぎらして、新子の便箋は、チギレチギレに裂いて、為替だけをハンドバッグに入れた。
その時、階下《した》から妹の声がして、
「お姉さまア。」と呼ばれたので、ハッとして、
「何?」と、訊き返すと、
「あのね。いま、誰が来ましたかって、お母さまが訊いていらっしゃるのよ。」と、美和子の声が、飛び上って来た。
さすが、ドキッとする胸を押えて、
「いいえ。誰も……」
「でも、玄関が開きやしなかったかって?」
「ええ、押し売か何かよ、断ったのよ。」切羽つまったウソをいった。
下からは、それぎり何の応《こた》えもなくなったので、圭子はホッと、安堵の思いをした。
さっき、書留を見た刹那《せつな》、為替証書を見た刹那、精《くわ》しくいえば、無意識に懐《ふところ》へしまったまでに、わずか二、三分たらずの間に、圭子の心は、決していたのである。
このお金が、どんなお金であろうとも、自分のしていることが、どんなに無法であろうとも、ともかくもこのお金は、小屋代に――と思ったのである。しかも、母も美和子も、書留の来たことさえ、気がつかなかったのは、まことに幸運だったと、圭子の心は快哉《かいさい》を叫んだのである。
圭子は、にわかに元気づき、椅子の背に昨夜《ゆうべ》のままかかっているドレスを取って、手早く支度をしてしまった。
母とも妹とも、口をきかず、怒っているような姿勢を取って家を出ると、途中日比谷で下りて、そこの郵便局で現金に換え、三時少し前に劇場へ着いた。
小池は、一時間も前から来ていたらしい。圭子の顔を見ると、
「どうです、首尾は?」と、さすがに、不安そうにオズオズ訊くのを、圭子は快活な笑顔で受けて、
「上首尾よ! でも、随分おかしい半端よ。百四十円、百五十円に十円足りないのよ。」
「けっこうですとも。けっこうですとも、それだけあれば、御の字ですよ。」と、こんな人が、こんなにと思われるほど小池は相好《そうごう》を崩していた。
七
親姉妹《おやきょうだい》に対する内面《うちづら》は悪いくせに、他人にはひどく当りがよく、他人から頼まれると、いやとはいえないような圭子だった。
「それで今日と明日とは、どうにかなります。だが、問題は明後日ですな。」という小池に、
「明後日まででしたら、私きっと後を何とか致しますわ。」と、圭子はまた引き受けてしまった。
長女としてあまやかされ、わがままに育ったから、肉親に対しては、いつも無口で不機嫌で、殊にガッチリした新子に対してなぞ、始終いらいらしがちで、お互に語り合うようなことがなかった。だが、一旦「外面《そとづら》」となると、快活で愛想がよく、不景気のフの字も見せず、万事いやな顔などせずきれい[#「きれい」に傍点]ごとで行こうという、お嬢さまの圭子だった。
その夜帰りのタクシの中で思うよう(お母さまに、もう一度おねだりして、ダメだったら……)。
圭子は、今朝判箱を取るために、用箪笥を開けたとき、甲斐絹《かいき》のごく古風な信玄袋がはいっているのを、チラリと見た。あの中には、貯金の通帳がはいっているはず――あれをそっと持ち出して……。
(だって、「落伍者の群」の「彼女」は、貞操まで、お金に換えてしまうんだもの。このくらいなことしたって……)
その夜は、少し睡眠剤を飲んでから、床に就いたのであったけれど、頭は大事決行の思考で、血が立ち騒いで、なかなかに寝つかれなかった。
だが、そのうちに圭子は、気がついた。銀行の使いは、今までずーっと新子の役であって、それに使う実印だけは、母が判箱には入れてないで、どっか箪笥の抽斗《ひきだし》の奥ふかくしまってあるということを。……
通帳をそっと持ち出すことはやさしいが、母の眼をしのんで、箪笥の抽斗をかき廻して実印を探し出すことは至難であるということを。
もっと、名案がないかしら……彼女は、暗闇《くらやみ》の中でじっと眼を開けていた。
(そうだ。新子ちゃんに頼んでみよう、前川さんは、ちょっとしたことで、あんな大金を呉れるんだもの。お給金の前借なんか簡単に出来るかもしれない)
家の生活がどうなろうと、母姉妹《おやきょうだい》をどう詐《だま》そうと、乗りかかったこの船を降りて、なんの生き甲斐があるものか。芸術のためだもの、自分が本当に生きて行くためだもの、手段なんか、どうだって――と、子供らしい向いっ気で、そんなことを思いつくと、
(そうだ! 新子ちゃん大明神だわ。明日の朝、早く電報を打とう! そうすれば、明後日までに間に合うわ)
すぐにも新子が送金してくれるような気がして、ぞくぞくと嬉しくなってしまった。
(それにしても、必死的な退引《のっぴき》ならぬ電報の文句を!)と、圭子は考え出した。
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愛人無為
一
樹の根に、踝《くるぶし》を打ちつけて、青いあざを残したけれど、痛みはその時だけで、手の甲の傷も、ほんのかすり傷だった。
それなのに木賀子爵をはじめ、夫人をのぞく人達は、新子の傷を心配してくれた。熱が下ったばかりで、起きられない祥子《さちこ》は、新子の足に、繃帯《ほうたい》を巻きたがった。
翌日は、もうさわってみると、ほのかに痛みを感ずるというくらいだった。
夫人も、少しテレていると見え、あれから新子に顔を合わせることを避けていた。
小太郎はその日夏休みの復習帳に、晴というのを時と書き、曇という字を雲で間に合わせているのを、新子に指摘されて、午前中廊下をかけ廻りながら、
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晴を時と間違えた
曇を雲と間違えた
テリヤを輝や(女中の名)とまちがえた
[#ここで字下げ終わり]
という自作の即興詩を、奇妙な節をつけて、歌って歩いて、夫人から叱られて、一時からの復習の時は、殊のほか神妙であった。
新子は、二時から祥子の部屋にいたが、母夫人の入って来る気配がしたので、そこはかと、部屋を出たが、歩いてみたくなったので、大好きな別荘前の諏訪の森へ、遊びに行った。
地面が絶えずジメジメして、しだ[#「しだ」に傍点]が生えており、空気がひんやりしていた。
横手の外人別荘から、小さい金髪の男の子が、ワイヤー・ヘヤードを連れて、どこどこまでもかけて行った。
後は全く静かであった。
新子は、美沢が(墓地の静けさ)が好きなので、よく二人で弥生町の家から、谷中の天王寺に出かけたり、省線で横浜へ行き外人墓地を高見から、眺めたりしたことを思い出した。
この森を、美沢と一緒に歩きたいような希望が、頭の中に湧いた。
家の前途を、一人で背負って悩んでいる新子は、時には誰かに慰め労《いたわ》られたいような気持がした。そんな気持で、美沢に会うのであったけれども、美沢がまた、どちらかといえば、新子に慰められる側の性格で、いわば新子は、美沢にとって姉的愛人だった。
だから、新子は今まで何人《なんぴと》にも労られたことがない。
準之助氏から、労られたのが初めてである。
昨日《きのう》は、不当な大金を、お菓子をもらう子供のように、易々《やすやす》ともらってしまい、もらった後で、相当考えてみたが、準之助氏の気持が、順逆いずれにもせよ、自分は順に素直に受けた方がよいと考えて、十円だけ自分のお小遣いに取っておいて、後は母へ送った手紙にも、もらった理由をかくさずに書いておいた。
二
不当な大金であるとは思ったが、それだけに母に送ったときの母の笑顔や、またその金に依って、一家の生活と安寧とが、一月でも三月でも支えられるということは、新子にとってはたいへんなことだった。
(たとい謝礼が多すぎても、私が小太郎さんや祥子さんに、誠意を尽すことで、それに相当して行けば……)とも新子は考えた。
ただ準之助氏がお金を呉れるときにいった言葉が、遠雷を聴くような不安を、今でもかすかに残している。
だが、とにかく他人からお金を貰うことはそれが生れて初めてのことであるだけに、新子は悲しかった。わが心があさましく寂しく思われる。
そんなことを考えながら、新子は冷たい樹の幹によりかかってぼんやりとしていた。
その時、彼女の眼を後《うしろ》から、誰かが無理に延び上って、無理に延ばした細い指先で、眼かくしをした。
「知っているわ。小太郎さんでしょう。さっきから知っていたんだから、駄目よ。」
「ウソいっている。随分驚いたくせにねえ、驚いたでしょう……」
「ええ。ええ。」
小さい手を握って、眼から離して、前へクルリと引き寄せると、きっと準之助氏が一しょだろうと、後を振り返ってみると、白いリネンの服を着た青年子爵が、二、三間後に立っていた。
子爵と新子とは、微笑《ほほえ》んだ。
昨日《きのう》、傷の手当を、かなり親切にしてくれた。
「もう、お痛みにならないんですか。」
「ええ、もう。すっかりよくなりました。いろいろご心配をかけまして……」
「外人達のテニスのトーナメントがありますよ。見にいらっしゃいませんか。」
「ええ。」
「小太ちゃんが、貴女《あなた》がきっと、ここにいらっしゃるから、誘って行こうって、僕を連れて来たんです。」青年は、何か闖入者《ちんにゅうしゃ》であるかのように、弁解した。この森が、まるで新子の森で、自分が無断ではいって来た闖入者でもあるかのように。
「南條先生は、ここが好きだねえ。」小太郎は、感に堪えたようにいった。
「テニスは、あまり見たことがないんですけれども……」と、新子が青年に答えると、小太郎は横から
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