です。構わなかったら、きかせて下さいませんか。」準之助氏は、たまりかねて訊いた。
「先生のママさんが、ご病気なの?」と、腺病質で、勘のいい祥子までが、大きい眼を刮《みは》って、愛らしく新子に訊いた。
 新子は、危うく涙になりそうな微笑で、首を振り、準之助氏の方を見上げながら、
「ほんとうに、何でもございませんの。姉のつまんない勝手でございますの。お聞かせするような筋じゃございませんの。」と、いった。
「じゃ、姉さんが、用事があるから、すぐにでも東京へ帰れとでもいうのですか。」
「いいえ、そんなことでもございませんの。」
「じゃ……」準之助氏は、しばらく考えて「貴女《あなた》に無理な依頼でもして来たのですか。」
「ええ。まあ……」と、新子は言葉を濁した。
「依頼って、どんな性質のものですか。」
「つまらない、出鱈目《でたらめ》な事なんでございますの。」
「というと……」準之助氏は、じっと新子を見つめながら、追及して来た。
 新子は、ちょっと身がちぢむような気がした。相手は、あくまで紳士的に、礼を失しないように自分の窮状を察してくれようとするのであったが、それ以上は訊いてもらいたくはなかった。
「あんまり唐突で、私にも、何が何だか分りませんの。早速問い合せの電報でも出してみようかと思っていますの。ほんとうに出しぬけで、……でも、ご心配して頂く筋じゃございませんの。」と、新子は、しっかりした態度で、準之助氏の好意を斥《しりぞ》けた。
 準之助氏は、新子の微笑にまぎらしている憂鬱そうな顔を、なおしばし見つめていたが、
「貴女にも分らないとすれば、どうともしようがないですね。」と、いった。新子は、笑いながら、うなずいた。
「じゃ、先生電報が来ても、ここのお家にいるんでしょう。」
「ええ。いますとも、祥子さんと一しょでなければ、東京へ帰りませんわ。」
「じゃ、すぐその間い合せの電報を打っていらっしゃい!」と、準之助氏がいってくれたのを機会に、新子は祥子の部屋を出た。

        三

 新子は、自分の部屋へ帰って来たが、姉の無理解に、腹が立って仕方がなかった。自分に、三百円の大金が、どうして作れると思っているのだろう。百四十円という金を送ったので、それに味を占めて、前川さんに借りてくれとでもいうのなら、姉にも似ず、あさましい考え方だと思った。
 無性に腹が立って、問い合せの電報も、断りの電報も、打つ気にならなかった。自分に、こんな電報を打ってよこすなど、ただ自分を苦しめ悩まし、不愉快にするだけではないか。
 新子は、収まらぬ胸を落ちつけるつもりで、机の上に置かれてある、朝刊を取り上げた。
 朝の内に、主人が読み、その次に夫人が読む、夫人は朝寝であるから、新子のところへ新聞が廻って来るのは、いつも祥子の勉強が了ってからであった。
 三面をザッと読んでから、文芸欄を開いて、随筆や時評などを漫然と読んでいると、ふと「新劇研究会の公演」という見出しが眼についた。埋草のように六号で組まれたものだが、姉が関係していることを知っているだけに、新子の眸はひきつけられた。

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二十五日より今月末まで、S劇場で旗拳《はたあげ》公演をしている、小池利男氏の統制下にある若い素人《しろうと》の劇団だ。出し物のうち、ルノルマンの「落伍者の群」は、稽古が足りない恨みがあるが、どこか新鮮な力の溢れている演出だ。殊に白鳥洋子の「彼女」は傑出している。恐らく、今度の公演での唯一の収穫だろう。聡明な理解に充ちた演技だ。この人の未来を嘱望せずには居られない。(IT生)
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 読みおわると、新子は胸がおどった。姉の圭子が問わず語りに、
(妾《わたし》、もし舞台に出るのであったら、白鳥洋子という芸名にするの。どう、白鳥洋子と、いうの?)と、いったのを思い出したからである。
 姉は、実生活に、のんきで出鱈目であるだけに、一方にこんないい天分が、かくされているのだ。短い寸評だけれども、これ以上の認められ方なんて、ありゃしないわ。
 そう思うと、新子は姉に対する感激で胸に、グッと熱いものが、こみ上げて来るのだった。
 今の今まで、姉に対して、懐《いだ》いていた不愉快な感情までが、カラリと拭われたように無くなってしまった。そして、姉がずーっと、自分よりも、貴い人種のように思われて来た。
(そうだ! あの無心のお金も、きっと今度の公演に必要欠くべからざる金なんだわ。女優なんかになることは、大反対の母に断られて、止むを得ず、自分に訴えて来たのだろう。わずか、三百円で、姉の女優としての素質が、ハッキリ認められるのなら、こんなに廉《やす》いことはないわ)
 S劇場の舞台で、観客を前にして、芝居をしている姉の姿が浮び上って来た。「落伍者の群」なら、新子も読んだことがある。「彼女」の台辞《せりふ》だって、切々《きれぎれ》に覚えている。そんなことを考えていると、新子は姉に対する、肉親らしい感激で、さっきとは別人のように、興奮してしまった。

        四

 どうせ、実生活には不向きな姉である。
 大空に向って、翼を張り、自由に雄飛すべき天分の持主ならば、それを無理に、家庭生活の煩わしい鎖で、つなぎ止めて、平凡な生活を送らせるよりも、姉の思うままに芸術の世界へ、輝く脚光《フットライト》の国へ送り出してやるのが、妹としての、真の愛情ではあるまいか。天才的な姉のために、自分が犠牲になってやるのが、妹として正しい道ではないかしら。前川さんにお金を借りるくらいの危道《きどう》を踏んでもいいのではないかしら。
 今まで、姉の実生活的方面のみを軽蔑していた新子は、姉の他の輝かしい半面を見つけて、新子が実際的の人間であればあるだけ、その光輝に打たれて、すっかり興奮してしまった。
 前川氏にお金のことをいい出すのはいやだ。しかし、その嫌さを忍んで、姉のこの機会を充分に生かしてやるのが、自分の義務かもしれないと新子は思った。
 新子は、何か物に憑かれたようになって部屋を出た。前川氏は、まだ祥子さんの部屋にいるだろう。居てくれれば都合がいいと思いながら、階下へ降りて行った。
 準之助氏は、新子の希望していたとおり、祥子の部屋に居て、今度は新子の代りに、祥子に本を読んで、きかしていた。
 父と子は、にわかに晴れやかになった新子の顔を、いくらか不思議そうに迎えた。
「どうなすったんです……?」と、準之助氏が、まず訊いた。
「姉の電報の意味が分りましたの。」
「ほう。どういうわけだったんですか。」準之助氏は、けげんそうであった。
 新子は、折りたたんで持って来た新聞を、準之助氏の前に差出しながら、劇評のところを指して、
「姉は、こんな道楽をしておりますの。白鳥洋子というのは、姉の芸名なのでございますの。」と説明した。新子の気持も言葉も、上ずっていた。
 前川氏は、それに目を通すと、
「はア。これは、素晴らしい讃辞じゃありませんか。」と、新子の満足そうな笑顔に、やさしい愛情に充ちた眼を向けた。
「ええ。私もびっくり致しましたの。」と、新子はしおらしく合づちを打った。
「それで、先刻の電報は?」
「お金の無心なんですけれども、どうしてお金がいるのか分りませんでしたの。これで、分りましたわ。みんな、学生ばかりですから、この公演の途中で、資金が足りなくなって、困っているのだと思いますの。そして、私のところまで、あんなとばっちりのようなムリな電報を寄越したのでございますわ。これを見るまでは、何が何だか解らなかったんですもの。」と、新子は、少し浮かれてでもいるように、喋りつづけた。
「そうですか。いや、それで安心しました。貴女のお姉さまなら、僕は欣んで後援しようじゃありませんか。」
 新子は、嬉しくなって、頬がカーッとなった。

        五

「失礼ですが、電報では、いくらほどご入用だと云うのですか。」準之助氏は、続けて訊いた。
 新子は、準之助氏と、おずおず眼を合せながら云った。
「もしも、こんなことが許して頂けるんでしたら……私の月々頂くものを、半年分ほどまとめて、拝借できないでしょうか。」
「いや、いや、月給は月給、これはこれですよ。」と、準之助氏は、手を振りながら、
「そのくらいでいいんでしたら、僕が貴女のお姉さんを後援する意味で、差しあげましょう。今日にでも、東京の事務所の方へ電話をして、お宅の方へお届けしましょう。」
「先日、あんなお礼まで、頂いて。でも、あれは、母の方へ送りましたのですが、母は芝居なんかに、とても理解がありませんから、恐らく姉の方へは、ちっとも廻らなかったと思いますの。」新子は、真赤に上気しながら弁解した。
「いや、ごもっともです。お年寄は、女優なんかになるといえば、恐らく大反対でしょう。」と、そういってから小さい娘に、
「祥子や、安心しなさい。先生への電報は、わるい報知《しらせ》じゃなかったんだよ。パパは、ちょっとご用事が出来たから、『コンコン山のきつね』は、また後にしようね。」祥子が、素直にうなずくのを新子は、
「今度は、私がお読みしましょうね。」と準之助氏の膝にある本を受けとった。
「四谷のお宅は、谷町でしたね。谷町の何番地ですか。」
「二十七番地でございますの。」
「お姉さんのお名前は?」
「圭子でございます。」
「ケイ、どんなケイです。」
「土を二つ重ねた。」
「分りました。じゃ、出来れば今日中に届くように。遅くとも明日午前中に届くように。スリー・ハンドレッドでいいんですね。」と、念を押して、前川氏は部屋を出て行った。
 新子は、前川氏の後姿《うしろすがた》を、ありがたく見送りながら、(いい方だわ。あの方が、私のことを心の底でどう思って、いらっしゃるにせよ、とにかく、いい方だわ。こんな問題に、こちらをちっとも、不愉快にせずに、あんなに美しくお金を出して下さるなんて!)と、思うと、たまらない気持になって、祥子にいった。
「祥子さんのお父さまは、何ていい方でしょう。ほんとうに、いい方だわ。」
 何だか、祥子に頬ずりしたい気持だった。祥子も、その大きい眼をかがやかし、
「そう。じゃ、先生もパパ好き。」
「ええ大好き。」
「祥子も好き、ママよりもズーッと好きよ。」

        六

 その日の午後、木賀子爵は急に東京へ帰ることになった。新子が小太郎の相手をしている時に、女中が知らせに来たので、新子も小太郎と一しょに、玄関まで見送って出た。
「やあ! また、お目にかかりましょう。お元気で……」木賀は、明るい微笑と遠慮のない調子で、新子に云った。
 相変らず、大公妃のようにすましている夫人が、木賀がそう云うと同時に、いやな一瞥《いちべつ》を新子に送った。
 木賀が自動車に乗ってしまってから、夫人は、あわてて呼び止めた。
「逸郎さん。私、やっぱり駅まで送って行ってあげるわ……駅へ行くの少しおっくうだけれどいいわ……このままでいいんだから……」と、云いさして良人《おっと》の方へ視線を向けて、
「逸郎さんを送って行ってもいいでしょう。ねえ、ちょっと行って来ますわ。」と、云った。いつものとおり、傍若無人で良人の意志など問題でないようであった。
「ちょっとまた、支度しますから……」と、云って、奥へ引き返すと、お化粧を仕直して、帯をしめ直したらしく、十分近くも皆を待たせてから出て来た。
 自動車に乗った二人を、新子は丁寧に頭を下げて見送った。
 サイレンの響きが、かすかになった頃、準之助氏は新子に、
「四谷谷町二七でしたね、さっき電話をかけておきました。もし、お姉さんが留守だったら、劇場の方へお届けするよう、云い添えました。貴女からも、お姉さんに、電報をお打ちになったら、どうですか。そして、お姉さんに、物質的なことは心配なさらないで、専心に舞台の方を、おやりになるよう、激励しておあげになったらどうですか。」かゆい所に手の届くような心づかいだった。まるで、自分に対する親切と好意の権化のように思われた。
 もうその人に対する心の警戒も遠慮も
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