は本郷弥生町の家に帰って来た。
 ささやかな門のついている暗そうな借家であった。
 狭い玄関に上りかけたとき、母が出迎えて、
「お帰り、ほんの一足ちがい――新子さんが、八時半頃お見えになって今しがたまで、いらっしたのよ。」と、云った。
「へえ!」内心の驚きと口惜《くや》しさとをこらえて、無愛想に云うと、二階の書斎へ上って行った。美和子などにつき合ったばかりにと思うと、新子にひどくすまない気がした。
 二階は、八畳一間。床の間に、清々《すがすが》しい白百合と、根じめにりんどうの花が生けてあった。花をよく持って来てくれる新子が、自分を待つ間の手ずさみだと思うと、銀座行きがひどく後悔されて来て、何かしら自分と新子との愛情に凶相が萌《きざ》したような気がした。
 彼は、黙々として卓子《つくえ》の前に坐った。と、手元に彼の使っている白い封筒がふくらんで、きちん[#「きちん」に傍点]と、置かれているのに気がついた。
 思いがけない嬉しさに、救われたような気がして、乱暴に封を切った。

[#ここから1字下げ]
私とうとう働くことになりましたの。家庭教師です。今日、お目見得、多分採用される見込み、前川
前へ 次へ
全429ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング