を解しないため、路傍の花に心を奪わるることなく、上部《うわべ》だけは善良な良人であった。だから、綾子夫人は、良人を信じ切り、良人で得られない刺戟は他の男性から求めていた。
 そこへ突然、新子が出現したのである。今までは(悪妻である。イヤな女性である。しかし、一旦結婚した以上、あきらめる外はない。こういう妻に対して、辛抱するのも、また一つの人生修行である)と、考えていた彼の眼に、たちまち華やかな一つの幻覚が浮び、遠く桃源の里を望み見たような心のときめき[#「ときめき」に傍点]を感じはじめ、生活が急に生々《いきいき》となって来たのである。
 が、不意に時節到来、今日お互に緊張し切迫した気持で、散歩しているとき、雷雨に逢い、平調を失った――あるいは平調を失う口実を得た彼は、思わず新子の顔を腕の中に抱いてしまったのである。
 にわかに、新子を愛人と云ってもよいほど、身近に獲《え》てしまった彼は、自ら非常な覚悟をしなければならなかった。
(このことで、新子を絶対に不幸にしてはいけない。どんな犠牲を払っても、あの人を幸福に!)と、彼はそう思った。彼が以前読んだ英国の小説に(恋愛はしてもいい。しかし
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