のしたことが自分で信ぜられない気持だった。
 そうした、いろいろな後《のち》の思いに、打ちひしがれていた新子は、準之助氏が帰って来たこともレコードが一時止まったことも、気が付かなかった。
 しばらくしてスキーパの「グラナダ」が、その盤の裏にある「プリンセスタ」に、変っているのに、気がついただけであった。
 あの曲が、了ったら夫人のところへ行こう。あまり、時が経ち過ぎて、不自然にならない内に、謝りに行こう。しかし、主人とあんな風なことをした後で、謝りに行ったのではと思うと、新子の心は暗かった。
 ほんとうは、これを機会に、この家を出た方がいいのではないかしら、それが、準之助氏のためにも、自分のためにも一番いいのではないかしら、自分と準之助氏との関係が、これ以上進まないうちに。
 自分は、あの方からお金を借りている。しかし、あの方に唇を奪われた。どんなに低く評価しても、処女の唇、その価五百金、千金に価しないだろうか。
 スキーパの声が、高く高くなる。新子の心は、悔いと悲しさに、揺れ動かされていた。
 雨によごれた顔を、クリームでふき取り、鏡を出して、化粧を直そうと思ったが、鏡を見ることが、
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