とって置きの秘蔵品だったのかと思うと、新子は悲しかった。だが、母はニコニコしながら、
「重松さんにね、こんな指輪、どうせ安いんだろうと思って見せたら、金は今とても、値がいいんですってね。ねえ、新子売ってもいいだろうね。あなたに相談しようと思って、呼んだのよ、どう?」母は、二、三年来の金の値上りにさえ、今更おどろいているらしかった。
「そうね。そりゃ売ってもいいけれど、重松さん、今一|匁《もんめ》いくらで買って行くの。」
「十円五十銭です。」頭をテカテカになでつけた重松は、どっかにずるそうなところのある四十近い小男だった。
「もっと、するのじゃないの。」
「十一円五十銭まで行きましたが、このところ一円ばかり下っていますので……」
「この指輪、何匁あるの。」新子は、一つずつ持ち上げてみながら訊いた。
「大きい方が、五匁二分。小さい方が、四匁四分、両方で九匁六分でございます。」
「重松さんのはかり[#「はかり」に傍点]、インチキじゃないの。」と、新子がからかうと、
「どう致しまして、それにお母さまが、ちゃんと古い書付を持っていらっしゃいます。ごまかしがきかないんですよ。」
「へえ。どんな書付?」
「これよ。」母は、うれしそうに、膝の上に置いてあった渋色になった、みの紙の書付をひらひら出して見せた。
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一、金二十三円九十二銭也
平打純金指輪。五匁二分(一匁四円六十銭也)
一、金二十円二十四銭也
平打純金指輪。四匁四分(一匁同上)
細工料一円二十銭
明治四十年九月吉日
[#ここで字下げ終わり]
と書いてあった。
考えると、これは両親のエンゲージ・リングなのである。
「売っちゃうの。」新子は、何か悲しいような、あさましいような気がして、しずかに母の顔を見返した。
五
この四、五年来、金輸出禁止とか解禁とか、再禁止とか、あんなに騒ぎがあって、金の値上りについての新聞記事だっていく度も出ているのに、それをちっとも知らない母は、重松のいう相場に、何か大もうけでもしたように、うれしがっていた。
「ねえ。この書付だとこんなに安いのが、百何円にもなるのだねえ。やっぱり、昔のものは、物がいいんだね。」
ほかの物は、いざ知らず、金はいつにでも金であるところに値があることを知らないらしい母に、新子は、
「ええ。」と返事はしたものの、あたたかく眼頭《めがしら》がうるんで来た。
父が死んで以来、母が経済的には不具だということが、露骨に分って来ていた。百円の金は、半月くらいの間に、煙の如く意味もなく、消えるのだろうと思うと、そのために、亡父と母との大事な記念物が、易々《やすやす》と消えて行くことが、新子には悲しかった。
重松は、紙幣を数えて、母に渡し、小銭をも出そうとすると、母はあわてて、
「端金《はした》は、いらないから。」と、あきれるばかりの気前のよさで、ほくほく紙幣を受け取るのであった。その端金《はした》があれば、午後取りに来るはずの電燈代が払えるのにと思うと、新子は、
(妾《あたし》がいるから、重松さん、置いて行きなさいよ!)と危く口に出かけたが、今でも貧乏たらしくすることのきらいな母の気持を傷つけたくないために新子はだまっていた。
重松が帰ると、結局金を持って気の大きくなっている母から、さっき頼まれた姉の書籍代を引き出すことに、気をつかわねばならなかった。
「ねえ。お母さま、お姉さまの本代がいるのよ。二十五円ばかり、その中から出して下さらない?」気のいい母は、かの女の思わく通り、割合機嫌よく、圭子の書籍代を、その内から出してくれながら、
「ほんとうに、あの子は金喰い虫だね。でも、来年学校を出たら、働いてくれるだろうね。」と、いった。
「どうですか。女子大なんか出たって、今年なんか十人に一人くらいしか、就職出来ないそうですよ。それに、お姉さまのような人働けるかしら。」
「だって、そのために学問をしているのじゃないのかい。」
「そうは行かないのよ。お母さん、この頃は男の大学を出たって十人に二、三人しか口がないんですもの。お姉さんなんか、芝居なんかを熱心に研究したって、どうにもなるもんですか。」
「じゃ、お前だんだんお金が減るばかりだし、先々どうなるのだろうね。私は、圭子が学校を出るまで、どうにかして喰べつなげばいいと思っていたんだが……」
「妾《わたし》が、働くつもりよ。」
新子は非生活的な一家の代りに、自分が働くよりしようがないと、つとに決心していた。
六
母と卓子《ちゃぶだい》をはさんで新子は、しみじみと云い出した。
「お母様。私、すぐ働くようになるかもしれないのよ。お母さまも知っているでしょう。前川さんて、私のお友達があるでしょう。この間、他所《よそ》でお会い
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