したときに、私働きたいって、お話ししたら、ちょうどあの方のお兄さんが、家庭教師を探しているんですって、日曜だったら兄もきっと家にいるから、一度会いにいらっしゃいって、おっしゃって下さったのよ。今日これから、伺ってみて、私に勤まりそうだったら、おねがいしてみるつもりよ。」
「だって、お前は美沢《みさわ》さんと、結婚するのじゃないのかい!」と、母は気をきかして云った。
「いやなお母さま。だしぬけに、そんなことを。」物に動じない新子の頬が、かすかに染まった。
「だって、美沢さんは、随分お前と親しそうじゃないか。」
「私が、今結婚してしまったら、お母さん達どうなるの。」
「それも、そうだけれど……」
「それに、美沢さんだって、結婚できるような身分じゃないわ。それに、お友達としては、いい方だけれど……。とにかく、私午後から、前川さんのお宅へ伺ってみますから。」そう云って、新子はお昼の支度にと、台所へ立った。
ここへ引っこして来たとき、女中には暇を出したが、長年奉公している六十に近い婆やだけは、今更出すにも出せなかったし、母から、つねに口やかましくいわれながらも、それを気にしないで忠実に働き、買物なども一人でやってくれるので、新子はたよりにしていた。
婆やに、昼のお惣菜の指図をしてから、母の居間に、さっき出かけた美和子がぬぎばなしにしていった着物を片づけていた。
「ねえ。お前が働くということ、圭子は知っているかい?」茶箪笥《ちゃだんす》の抽出《ひきだ》しから、手提金庫を取り出して、さっきのお金をしまい込みながら、母が新子に云った。
「いいえ。まだ。」
「一度、相談してみたら、どう? 圭子には、また何かいい考えがあるかもしれないもの。」
「いいですわよ。」
「なぜ。圭子は、長女だもの、お前を一番に働かすなんて法はないわよ。」
「いいのよ。お母さん! お姉さんには、またお姉さんとしての考え方があるのよ。」
「だって、そりゃ――お前の決心を聴いたら、圭子だって、何というか分りませんよ。」
「私、話がきまってから、お姉さんに報告するわ。お姉さんはお姉さん、私は私だわ。じっとしていられない性分ですもの、つまり苦労性なのよ。私は、おおいに働くわ。」
七
それから、三時間ばかりの後に、新子は麹町元園町の前川邸の応接間にいた。
友達の訪れを、心待ちにしていたらしい令嬢の路子は、さっぱりした趣味のよいアフタヌーンを被《き》て、新子を欣《よろこ》び迎えてくれた。
絹ばりの壁や、カーテンの快い色彩、置き棚や卓子《テーブル》の上に飾られた陶器や、青銅の置き物や、玻璃《はり》製の細工物などの趣向のこった並べ方が、その豊かな暮しを現して、すべてがゆったりと溶け合っていた。窓からは、手入のよく行き届いた庭の一部が眺められ、雨に咲いている、くちなし[#「くちなし」に傍点]の強い甘い匂いが、ときどき、かすかにうっとりとするほど、部屋の中に揺れて来るのであった。
三、四年前までは、この家へ二、三度遊びに来たこともあり、こうした応接間の空気などにも、特別に感じ入りもしなかったのであるが、やや切端《せっぱ》つまった就職者として来ているせいもあって、新子は何か不思議な圧迫を感じるのであった。
「今年小学校五年になる兄の子が、あまり甘やかしたせいか、頭はそんなにわるくないんだけれども、学校が出来ないの。」
「男のお子さん……」
「ええそう。いたずらっ子だけれども、性質は素直なの。それから、小学校三年の女の子、この方《ほう》は、どちらでもいい。この方は、面白いかわいい子よ。二人とも、貴女がてこずるような子じゃないけれど、問題は姉よ。」
路子は、新子に比べると、冴《さ》えたところはないが、丸顔で眼も唇もほっそりしていて、豊かな黒髪を短く切って、洗練された衣裳の好みや、金持の娘にしてはすましていない点などで、何となく人好きがした。弾力に充ちた身体は、しなやかで、いかにも快活そうだった。
「お姉さまって?」
「つまり、子供のお母さまよ。」
「じゃ、お兄さまの奥さま!」
「ええ。」愛嬌《あいきょう》ぶかい路子の茶がかった眼が、ちょっと皮肉な笑いをうかべた。
「それは、どういう意味で!」
「貴女、私の義姉《あね》とお会いになったことないかしら。」
「一度くらい、お目にかかりましたわ。」新子は、いつか劇場か何かで、路子といっしょにいるときに、ちょっと挨拶したことを思い出した。
「そうだったかしら。私、貴女なら辛抱して下さると思うけれど、……」
路子は、かわいい苦笑をつづけた後、
「兄は、とてもいい兄ですの。温良で、物分りがよくって、品行方正で……自分の肉親の兄をほめるのはおかしいけれど……」と、路子はしばらくは顧みて、他をいう形だった。
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