レディ第一
一
(辛抱とは、どういう意味の?……)新子は、路子と視線を合わしたまま、先を促した。
「兄は、貴女《あなた》もご存じのとおり、長く米国におりましたから、すっかりレディ・ファストなのよ。それもすこし極端なんですの。それに、義姉《あね》は、私の父には主人筋に当る子爵家のお姫さまでしょう。兄も、死んだ母も、三拝九拝して、来て頂いたんでしょう。だから、家じゃまるで、女王さまのような勢いよ。兄なんか、一生文句の云えない呪文《じゅもん》にかけられているように、頭が上らないのよ。前に来ていた家庭教師の方は、義姉《あね》があまりに、家庭教育ということに、理解がないと云って憤慨して出てしまったのよ。だから、貴女は義姉のすることを出来るだけ気にしないことが、大切だと思うのよ。そういうことは聡明な貴女なら何でもなくやって下さると思うのよ。」
「お義姉《ねえ》さまは、全然お子様達の勉強に、無関心でいらっしゃるの、それとも何かにつけて、干渉なさるのですの。」と、新子は訊いた。
「どちらでもないの、まるで気まぐれなの。全然無方針でいて、それで、ときどき何か云い出すらしいのよ。」
話の様子だけで察しても、頗《すこぶ》る難物であるらしい。だが、新子はどうせ働くからは、出来るだけ、やり甲斐のある難局に身を処してみたい気持だった。
「ほら、国語の杉原先生が、新子さんのことをいつか、賞めたじゃないの。貴女なら、どんなむずかしいお姑《しゅうと》さんだって、勤まるだろうって、南條さんは、お姑さんの機嫌ぐらいとるのは朝飯前だろうって、それで私は貴女ならきっと見事つとめて下さるだろうと思ったのよ。」
「いやだわ。あれは、杉原先生が私を皮肉ったのよ。」
「皮肉の意味もあったかしらん。でも、結局は貴女が、クラスで一番|悧巧《りこう》だということを認めていたのじゃない?」
「まあ、路子さんは、いろいろなことを覚えていらっしゃるわねえ。」
学校時代の話が出たので、急にむかしの親しみが、よみがえって来て、新子は路子の好意をうれしく思った。
「とにかく、私出来るだけやりますから、お兄さまにお願いして頂きたいわ。」と、新子は言葉を改めて頼んだ。
「ええ、いいわ。私だって、貴女が来て下さったら、お友達ができていいのよ。出来るだけ、うまく話して来るわ。しばらく、待っていて下さらない?」と、路子は立ち上って奥に入った。
新子は、ひとりとり残されて、路子の云う義姉《あね》のことを考えていた。
すると、一度しか会ったことのない前川夫人の面影が、おぼろげに頭の中に、浮び上って来る。
きかぬ気らしい張りのある眼や、唇元《くちもと》や、背の高い、つんとした貴族的な態度までが、路子の言葉を裏づけているような気さえした。
そして、家庭教師などいう仕事も、決して生やさしいものではないとつくづく思った。
二
そんなことを考えながら、新子が豊かに生い繁った庭の樹立に、眼を移してしばらくぼんやりしているときだった。
扉が、つつましく滑らかに開いて、人かげがした。新子が、ハッと視線を上げると、思いがけなくも、路子の兄の準之助氏が、独り落ちつき払った愛想のいい物腰で、部屋の中へはいって来た。
新子が、あわてて立ち上ろうとすると、
「いや、どうぞそのままで……」と、気持のいい潤いのある、男らしい中低音《バリトン》がそれをさえぎった。
でも、新子は立ち上って、意味もない微笑と笑顔で、初対面の挨拶をすませると、準之助氏は、椅子をちょっとずらせて、新子の真向いに腰をおろした。
上品に刈りこんだ頭、背がすらりと高く、色白く眼が柔和で、四十歳以上と聞いていたのに、三十代に見える若々しさであった。
どことなく明治文壇の鬼才川上眉山の面影あり、近くはアドルフ・マンジュウの顔を、少し四角くしたような、瀟洒《しょうしゃ》たる紳士であった。
口の重い人らしく、何もいいかけないので、新子はかるく腰をうかせると、
「路子さんまで、お願いしておきましたが、私で勤まりますようでしたら……」と、挨拶した。
「はあ。今日は、雨が降りますのに、ご苦労でしたね。今子供達も参るでしょうが、どうもわがまま者ぞろいで、困っているのです。この二十日《はつか》から、夏休みになりますので、本当は九月から、お願いしてもいいのですが、貴女のご都合がおよろしければ、休み中軽井沢の方へ行きますので、あちらへ来て頂いても、よろしいのですが……」と、手をのばして、シガーボックスから、キリアジを取り、火を点じると、やがてゆるやかに紫煙を漂わせた。
新子は、いかにも物なれた優美さに、ある驚きをさえ持った。路子さんが、もっと兄さんに似ていたら、どんなに美しかっただろうと思ったくらいである。物を云う、
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