は、蒲団を伸べる気にもなれず、灯《あかり》を消したままで机の前に坐った。
 そして、準之助氏の指の下で、血の流れを伝えた自分の手首を珍しいような、恥かしいような気持で、しばらく見つめた後、自分でも脈を数えてみた。
 脈が早かったのは熱のせいではなく、準之助氏の思いがけない出現と自分に対する態度のせいであると思った。
 そして、準之助氏があれ以上、自分に親しみを見せるようであったら、考えなければならぬと思った。
 そう思うと、たちまち美沢の若々しい面影が生々《なまなま》しく眼の中に浮んで来るのだった。
 四日目の朝になって、祥子の熱がようやく、七度台に下った。
 新子は、二晩はまるで、一睡もしなかった。祥子の病室に徹夜していると準之助氏が時々、容子を見に来た。そして、新子に引き取るように勧め、新子はこれをこばみ、その間に二人の感情や好意が、からみ合った。だが結局女中達よりも、新子の方が、夜通し付添っていた。その方が、祥子がよろこぶからだった。
 夫人は、祥子が病んでいても、午前は良人とゴルフに行き、夜は知合いの外人の別荘にダンス・パーティがあるといって出かけた。新子が祥子の看病をしていることなど、およそ自分とは関係のないような顔をしていた。むろん、礼もいわなかった。
 今朝も、夫人の親類に当る木賀子爵という青年が、東京から三、四日の予定で遊びに来ると、夫人はその青年と乗馬で、鬼押出しの方へ遠乗りに出かけてしまった。出がけに、ちょっと病室へ顔を出し、そこに新子がいるのを見ると、
「この子の熱は、四日目には、きっと平熱になるんですよ。主人なんか、毎度大さわぎをやりますんですけれど――あまり子供を大事にし過ぎると、かえって結果がよくありませんからね。本なんかも、あまり読んでやったりなさらないように、病気のときなんかかえって神経を刺戟し過ぎますし、また本を他人によませて、聴くなんていい習慣じゃありませんからね。」
 新子が、膝の上にのせていた「漫画常設館」という本を、ちらりと見ていった。自分が新子に本の頁《ページ》を切らせたのを忘れたように。
 しかし、新子は夫人が出て行くと、すぐ祥子に本をよんでやった。
 祥子は、かわいそうな話と恐い話が好きで、アラビアン・ナイトの悪魔を壺へ封じ込める話など、幾度もくり返して聴きたがった。
 小太郎も、祥子の部屋に遊びに来た。さわやかな午前だった。
 女中が、はいって来て、(旦那さまが、お呼びです)と、云った。
 二階の書斎へはいって行くと、準之助氏はひどく嬉しそうで、向き合っている新子の方まで、つい頬をほころばしたくなった。
「今、僕部屋をのぞきに行ったの、知っていますか。」
「いいえ、存じません。」
「子供達が、貴女をまるで、母親のようにして、甘えているんで、僕は扉《ドア》を開けずに、上へ帰って来たんですよ。」新子は準之助氏の視線を避けるようにして、答えなかった。答えようもなかった。
「僕は貴女にお礼をしたいんです。」
「お礼なんて――私が、何を致しましたかしら、祥子さんのご病気を、私が看病するくらい当然じゃございませんかしら。」
「いや、当然なことをしない女だって、沢山いますからな。僕にお礼をさせて下さい、でないと、僕の感情が、どんなふうに爆発するか分りませんよ。」
「そんなこと、おっしゃっては困りますわ。」
「じゃ、お礼を受けとって下さるでしょう。」と云って準之助氏は、自分用らしい白い角封筒を新子の前にさし出した。
 新子は、それを断るには、たいへんな努力が要ると思ったので、素直に受けとった。
 内懐《うちぶところ》にしまって、子供達の部屋に降りて来て、祥子の相手をしていたが、昼食のとき自分の部屋へ帰ったとき、開けてみると、それは、思いがけない不当な大金であった。
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  戯恋馬上行




        一

 ここらあたりは、スカンジナビアかどこか、北欧の景色に似ているという、薄白く霧のかかっている草野原で、土地の女の子が撫子《なでしこ》をつんでいる。
「このへんでお休みになりませんか。」
 若さで、はち切れそうな青年紳士が、先へ打たせている同じ馬上の夫人に呼びかける。
「押出しまで行きましょうよ。休みなら千ヶ滝の坂の下へ、馬を預けて、ホテルでお茶をご一しょに、その方がいいわ。」
 競走馬上りと見える流星栗毛のスマートな牝馬《ひんば》に、純白の乗馬服を着た夫人は、大公妃のように跨《またが》っている。しかし、声は新子に話す時などとは違って、小娘のようにはずんでいる。
 つばの広い帽子の下で、双眸《そうぼう》がはれやかにまたたき、さわやかな風に頬をなぶらせ、夫人はまるで別人のようにはしゃいでいるのだ。
 二、三町ばかり、軽い速歩《トロット》で進むと、眼下に新しい景色が展《ひら》
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