あまりさすってはかえっていけないのだろうと思って、そっと手を引こうとすると、祥子はパッと眼を開くのだった。
 静かに、静かにさすりながら、祥子の寝つくのを待つより外仕方がなかった。
「熱が高いので、肺炎を警戒するように医者が云っていました。」準之助氏が、低くつぶやくように云った。
「まあ。おかわいそうに、やっぱり、雨におぬれになったのが、いけなかったのですね。」女中が居なくなったので、新子は準之助氏の注意に拘らず、同じことをくり返した。
「そうかもしれません。しかし、僕達がそんなことを云い出してはいけません。妻が聴こうものなら、僕と貴女とで、病気にしたようなことを云い出しますからねえ。」
「でも、わるかったわ。アメリカン・ベイカリで、もっと休んでいればよかったのですわね。」
「いや、この子は、よく熱を出すんです。妻なんか、冗談にこの子のことを、熱出し機械なんて云っているくらいです。だから、安心し切っていますよ。」新子は、子供のうつらうつらと寝入った気配に、そっと手を引いた。
「眠ったようですな。どうぞ、引き取ってお休み下さい。もう十一時過ぎですから。女中が、附き添っていますから。」
「ええ。でも、もう少しお傍にいたいと思います。ほんとうにはよくお休みになっていないようですもの。」
「そうですか。じゃ、しばらく傍にいてやって下さい。すぐ女中が、参るでしょうから。」そういうと、準之助氏は、立ち上って、階上の居間に引き取ってしまった。
 間もなく、女中がはいって来た。
「ご病気でも、奥さまはお子さまと別々にお休みになりますの。」と、新子はつい訊いてしまった。
「奥さまは、万事外国風なんですの。あちらに四、五年いらしったものですから。だから、小さいお嬢さまなんか、ほんとうにお気の毒なんですの。」
 自分をあんなに慕うのも、やっぱり母の愛に飢えているからだろう。そう思うと、新子はいじらしさが、胸の中に、しみ出して来て、あの高飛車な夫人に対する意地からでも、徹夜して、看病したくなった。
 小さい寝息は、時々苦しげに、せわしくなった。そして、(あつい! あつい!)と叫びながら蒲団をおしのけたりした。
「ねえ。しずかに、お休みなさい! あしたまでには、きっとよくなりますわ。ねえ、ねえ。そうしたら、今日のつづきの漫画よんで上げましょうね。」
 羽根蒲団の上をかるく叩いた。
 女中と交替に、氷嚢をとり換えに行った。
 何時間経っただろう。女中は、台所の方へ行ったまま帰って来なかった。新子も、椅子の背にもたれて、わずかにまどろんだとき、部屋にはいった人の気勢《けはい》がしたので、ハッと眼を開けるとそれはパジャマを着た準之助氏であった。
 明け方近い病室に、なお止まっている新子を発見して、驚いて見つめている準之助氏の眼にいい知れぬ優しさが、漲《みなぎ》っているのを見ると、新子は名状しがたい恥かしさに、一時に頬をそめてしまった。

        四

 優しい準之助氏の眼は、たちまち親しく怒りつけるような眼つきに変って、新子を見ながら、抜足して病床に近づいて来て、
「あれから、ずーっとここにいらしったんですか。そんなことをしては駄目ですよ。それじゃ、貴女の身体がたまらない。第一、貴女の仕事でもないじゃありませんか。」と、好意に充ちた小言《こごと》だった。
 白々と明るくなった静かな空気の中に、スヤスヤと祥子の寝息が通っていた。
「大丈夫……」何か云いつづけようとしたけれど、声がかすれているので、新子は微笑で、まぎらしてしまった。
「大丈夫なものですか。もう五時過ぎていますよ。早く行ってお休みなさい。」
「今から、眠るということも出来ませんし、小太郎さんの勉強がすんでから、ゆっくり休ませて頂きます。」と、新子は小声でいった。
 準之助氏はじっと新子の顔を見つめていたが、
「貴女の顔も、なんだか赤いようですよ。熱があるんじゃありませんか……」さっき赤くなった頬が、まだあせないでいたのである。
「熱なんか……」と、いいながら、新子はつい自分の額に手をあてると、
「どれ!」と、準之助氏は、無遠慮に新子の手首を取り上げて、脈拍《みゃく》を探った。
 新子は、間がわるく、あわてて手を引っ込めようとしたが、そんなことをしては、なおこの場が色っぽくなるような気がして、静かに相手のなすままに委せていた。
「少し早いじゃありませんか。ムリをしちゃいけませんな。女中を呼びますから、お引き取りになって下さい。」
 新子は、すっかり睡気がなくなってしまっていたが、こうやって準之助氏と向い合っていることがきまりがわるくなったので、
「それでは、失礼します。」というと、部屋を出て行った。
 新子の屋根裏に近い部屋は、電燈の灯ったままで、ひんやりと、明方の空気が肌寒かった。
 新子
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