っと六時を過ぎたばかりなので、広いグリルには、お客の影が少く、姉と見知らない一人の婦人とが、入口から左の少し小高くなっている床《フロア》の卓子《テーブル》に着いているのが、すぐ眼にはいった。
 美和子が、わざと靴音高く近づいて行くと、姉がすぐふり返って、
「美和ちゃん、来たの。ここへおかけなさい。」と、自分の右側の椅子を、卓子《テーブル》から引きはなした。
 姉と話していた婦人は、そのときチラと美和子の方を、微笑で見上げたが、美しい顔に似合わず、何か人を威圧するような気位のある人だった。
 相手は、頭を下げないので、美和子も顎と上体だけをちょっと動かすようなお辞儀の仕方をして、席に着いた。

        三

 美和子が席に着くと、すぐ簡単な食事が運ばれた。
「これが、一番下の美和子でございます。」と圭子が先方へ紹介した。
「そうお。」
 相手の婦人は、鷹揚にうなずいて、やや険のある美しい眼で、ジッと美和子をみつめていたが、
「どなたも、それぞれ美しいわね。でも、この方が一番モダーンね。」といった。
 美和子は、相手が何人《なんぴと》か分らないので、ただニコニコ笑っていたが、その婦人の右の手の無名指に輝いている五キャラットはありそうな燦爛《さんらん》たるダイヤに驚いて目を刮《みは》っていると、パンを取り上げた左の手にも、同じくらいの石が光っているのを見つけて、(アッ)という叫び声を、口の中で、やっと噛み殺したのであった。
 男なら、誰の懐《ふところ》にでも、たちまち飛び込んで行く美和子だったが、女となると割合、好き嫌いが、ハッキリしていて、最初の一瞥《いちべつ》から、美和子はこの婦人が、あまり好きでなかった。
 食事が終りかけた時、姉の圭子は、以前からの話の続きらしく、
「私が、ご案内してもよろしいんですが、開幕前で、何となく落着けませんし、妹ならもう行きつけているんですから。」といって、相手の婦人が、うなずくと、今度は傍らの美和子に、
「ねえ、美和ちゃん、この方、私の芝居を後援して下さっている方で、新子ちゃんとも懇意にしていらっしゃる方なの。新子ちゃんに、会いたいとおっしゃるから、貴女バー・スワンへ案内してあげてくれないこと?」
「どなた?」美和子は、さすがに、相手の名前を訊ねた。
「前川さんの奥さま。」圭子は、さりげなく返事をした。
「まあ。そうお。」と、美和子は改めて挨拶したが、しかし、美和子は、その老成した頭で、新子と前川とのただならぬ関係をほぼ察していたので、前川夫人を新子の酒場《バー》へ、案内することが、どういう役廻りであるか、すぐ思い当ったので、
「でも、新子姉さん、驚かないかしら。」と、真面目な顔で云った。
 だが、若々しく愛らしく見える美和子のことなぞ、無視したように、夫人は圭子に、
「圭子さん、いろいろありがとうお忙しいところを。じゃ、しっかり、おやり遊ばせ。明日改めて、拝見に参りますわ。」と、云うと立ち上った。
「厭だ! ずるいや。」と、夫人が二、三間歩き出したとき、美和子は、姉に低くつぶやいたが、後から姉に押されて仕方なく一しょに戸外へ出た。

        四

 美和子は、姉の圭子が、このいやな案内役を体裁よく、自分に押しつけたのだと思うと腹が立って仕方がなかった。
 彼女は、わがままで随分新子に迷惑をかけていたが、しかし自分には、一文の得にもならないことで、新子を苛《いじ》めたくはなかったし、その上この夫人を一目見たときから、何となく虫が好かなかった。だから、夫人と素晴らしい高級車に、一しょに並んで乗ってからも、彼女はつんとすましていた。
 全然、美和子を子供だと見くびっているらしい夫人は、美和子の機嫌の悪いのを、そういう性格だとでも思ったらしく、いろいろ露骨に、南條姉妹の戸籍調べのような質問ばかりしていた。
 しかし、そうなるとかの女は、さざえが戸を閉めたように、無口になっていた。
 ホテルから、新橋よりのバー・スワンへは、物の三分ともかからなかった。
 自動車が止まると、美和子は常よりも、もっと身軽に飛び降りて、ゆっくり落着きを見せている夫人に、
「ちょっと。お待ち遊ばして!」と、さりげなく云うと、自分だけ、姉の店へ飛び込んだ。
 扉口のすぐ傍のボックスにいた新子は、勢いよくはいって来た美和子を見て、
「何というはいり方! もう、来ないのかと思っていた!」と、皮肉を云った。
「それどころじゃないわ。前川さんの奥さんが来たのよ。」
「えっ! 貴女が連れて来たの。」
「だって、圭子姉ちゃんが、無理に、私に案内させるんだもの。お姉さん、困るでしょう……」
 新子の顔から、一時に血の気が引いて行くような感じで、口がきけないらしかった。
「お姉さま、私を恨んじゃいやよ。圭子姉ちゃんが悪いのよ。」

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