らめて、しまったらしいのよ。あの前川さんを、お姉さんの愛人かパトロンかと思ったらしいのよ。あの方とお姉さん、何でもないの?」
「うるさいわよ。」姉は、つい険しい声で、きめつけると、顔をそむけた。さすがの美和子も、姉によっぽど悪いと思ったらしく、手早く寝間着に着換えると、電燈を消して、床の中へはいってしまった。そして、しばらくすると、この大胆なる恋愛|行者《ぎょうじゃ》は、もうかすかな寝息を立てているのであった。
 考えまい考えまいとしても、頭の中に一杯拡がって来ることなら、いっそ考えて考えぬいて、疲れた時に眠ることにしようと、新子は眼さえパッチリ闇の中に、開けてしまった。
 前川氏とたった一度一しょに、シネマを見れば、美沢に見つけられて、美沢が美和子と一しょに遊ぶ口実にもなれば、美沢が自分を思いあきらめる最後のとどめ[#「とどめ」に傍点]になるなんて、何という馬鹿馬鹿しいことだろうと苦笑したいくらいだったが、しかし、それを美沢に会って弁解する必要も感じなかった……。
 自分が一家のためだと思ってしたことが、いたずらに姉の演劇熱をそそり、妹のわがままを増長させ……前川氏の家庭を騒がし、奥さまにイヤな目に会わされ……だから、今後も自分としてはあまり殊勝な心がけで行動するよりも、もっと大胆に……。奔放に、前川さんにおねがいして、いっそバーでも出してもらった方が……。
 バーを開くとしたならば(イザベル)、アンドレ・ジイドの小説の題でもつけようか。(サフォ)(エンマ)(クララ)(レオカディ)(マニュエラ)でも、人の名は粋だけれども、少し地味だし……。
 音楽の曲名をつけるとすると、
(グラナダ)(ダルダナス)(ラ・カンパネラ)(カプリース)あんまり華美で仰山な名はいやである。口ずさんで楽しい明朗な名がほしかった。(バー・アイリス)(バー・ミモザ)
 雨の音はいつか絶えていた。
 妹や美沢のことを考えると、とても不愉快だった。美しいバーの名前でも、考えている方がせめてもの慰めだった。
[#改ページ]

  バー・スワン




        一

 溝板を飛んで来る板裏草履の音がして、勢いよく格子戸が開くと、
「南條さん、お電話ですよ。」と、酒屋の小僧さんの声が、家の中を、つん抜けた。
 食卓をかこんでいた姉妹《きょうだい》は、一様に視線を合せたが、新子は、前川氏からだろうと思うと、大いそぎで立ち上ろうとすると、美和子が、
「あたしよ。」と、厳しく云うと、早くも茶の間を横ッ飛びに飛んで、駈けだして行った。
 思えば、前川氏に呼出しの電話番号は、教えてなかったものをと、新子は、われ知らず頬を染めて、また箸を取りあげた。
 間もなく、
「ゼャーズ、ア、ランプ。シャイニング、ブライト、イン、ア、キャビン。イン、ザ、ウィンドウ、イッツ、シャイニング、フォア、ミイ。アンド、アイ、ノウ、ザット、マイ、マザー、イズ、プレーイン……」と、鼻にかかった、甘ったるい声で、晴れ晴れと唄いながら、美和子が帰って来た。
「誰から……?」圭子と新子が、同時に訊いた。
「お友達……フォア、ザ、ボーイ、シー、イズ、ロンギイン、ツウ、シイー……」頭を、コクリコクリとうなずきながら、
「もう、ご飯食べないわよ。」と、二階へ上ってしまった。
 新子は、美沢からだったのだろうと、推察して、いよいよ目の前に、ぴたりと冷たい鉄扉を立て切られたような気持になった。後で、前川氏に、手紙で(「酒場」を、させて頂くことに決めました)と、書いてやろうと、咄嗟《とっさ》に思案しながら、自分の心の傷口をいたわった。
 美和子は、洋服を着て、化粧して降りて来ると、すぐ、新子の肩につかまって、
「お小遣いが欲しいの、……」と、いった。
「一ト月に、二十円で足らなくて……この頃は三十円くらい使うって、お母さまがこぼしていらしたわよ。使い過ぎるわよ。」
「使い過ぎるも、過ぎないもないわ。実際けちくさいンだもの。お友達に気がひけて仕方がないわ。」
「交際《つきあい》を、お断りすればいいじゃないの。昨夜《ゆうべ》シネマに行ったばかりだし、……」新子は、意地の悪い皮肉な顔をした。
「お姉様のひどい人、……いいわ、文無しだって、どうにかなるわよ。」と、ぷーんとして、くるりと後《うしろ》を向いてスタスタ行きかけるのを、母親が、
「この日盛りを、病気になってしまうよ。お止しなさい。」
「氷じゃあるまいし、とけやしないわ。」母にまで、八ツ当りして、靴を穿いているのに、新子は立って行って、
「お姉さんだって、お金ないのよ。これだけ、持っていらっしゃい。」と、出してやるのを、
「不要《いら》ないわ。」と、後向きのまんま、格子戸を締めて、駈け出してしまった。

        二

 その日の晩、十二時はとくに打ったの
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