な酒場を開いて、浮《うか》れ男をあやつりながら、しかも道徳堅固に暮してみるのも面白かろうなどと、とり止めもない物思いがつづいた。
どんな世話になっても、自分さえちゃんとしていれば、何をいい出す前川氏でもないことが、ハッキリ分ったが、しかし肝心の自分が、ちゃんとしておられるか、どうか。あの夕立の時だって……と、思うと今見たばかりの「裏街」の女主人公のことなどが、思い合わされ、正統な結婚以外の男女の間は、どんな純愛で、結び付いていようとも、結局悲しいものだと思わずにいられなかった。
八時過ぎると、二階へ上って、床の上に身を横たえて竪樋《たてどい》を落ちる雨音を、さみしく聞いていると、美和子が明るい顔で帰って来た。
何も見まい何も聞くまいと、薄い掛蒲団の下で、ジッと眼をつむって、寝入りばなを装っているのに、
「お姉さまア。眠っているの。ウソでしょう。お姉さまったら……」と、またしても気になる、からかい気味の言葉である。
「何よ。うるさい。少し気分がわるいんだから、静かにしてよ。」と、にべもなく、つっぱなして、眼をつむるのに、
「気分が悪いなんて、ごまかしても駄目よ。さっき、見ちゃったもの。いいところを!」と、いわれて思わず、眼を刮《みは》って、
「貴女も帝劇へ行っていたの?」と、語るに落ちた。
四
小さい机の端に、灰皿とも飾りとも付かずに、置いてある綺麗な小皿を、手元に下して、美和子はこの頃吸い覚えたらしい無器用な手付きで、チェリイの煙を、もくもくとただ吹き上げて、
「だって、随分目に立ったわよ。あんなブワブワとした珍しい自家用に、スマートな紳士と一しょに乗り込むんだもの。あの人、誰?」新子は、その話をさえぎって、
「美和ちゃん、貴女誰と帝劇に行っていたの?」と開き直って訊いた。すぐ(美沢にも見られたかしら!)と、ワクワクと、胸先に苦しさが来たからである。
「クライヴ・ブルックみたいじゃないの。あの人誰さ? お姉さまが云えば、美和子も云うけれど……」顧みて他を云うと、いった調子で、美和子は狡猾《こうかつ》らしく、姉の質問をそらして、自分の問いのみを主張した。
「あれ、前川さんよ。」新子は、妹を問いつめる必要上、覚悟をして、アッサリ云った。
「へえ――。前川さんって、あんなに素敵な人なの、驚いた――とても立派ね、……」
「貴女は、誰と行っていたの。」新子は、すかさず訊いた。
「私はね……云うのよしとこうっと……」
「ずるい! 仰《お》っしゃいな。」と、下から見上げる姉の眼に、かち合うと、すぐあらぬ方に、視線を外《そら》して、
「あの人ったら、とても慌てて、……私達は、切符を買ってはいるところ、お姉さま達は出るところでしょう。あの人雨に濡れるのに、大急ぎで外へ飛び出して、石柱にぴったりと家守《やもり》のようにくっついて、あの自動車をいつまでも恨めしそうに見送っていたわ。それで、くさっちゃって、もう活動なんか見るのよそうというのよ。……美沢さん、やっぱりお姉さんが、随分好きだったのね。」大きな上眼で、天井を見上げたまんま、美和子の言葉を聴いていた新子の口尻に、びくっと力が入った。瞳の色は、飽くまで冷たかったが、微《かす》かにせまった眉や、顎のあたり、胸底の懊悩《おうのう》をじっと押しこらえている感じが、歴々《ありあり》と浮び上った。
姉のそうした表情を、妹は露ほども気がつかず、
「直感ね。私は、今日美沢さんと、一しょに出かける時から、何となくお姉さまに逢うような、逢ったら困るような気がしたのよ。でも、パッタリ出会《でくわ》さなかったし、……それにお姉さまも一人じゃなかったでしょう。何だか、くすぐったいような、妙にサバサバしたような、安心したような気持になっちまって、でも活動は一時間ぐらいしか見なかったのよ。それから、銀座へ出てフロリダへ廻ったの。だって、美沢さん、滅茶滅茶に騒ぎたいというんだもの。……」
五
新子が、黙って聴いているので美和子もさすがに、気がさしたのか、ちょっとの間|口《くち》を閉《とざ》していたが、やがてしんみりと、
「美沢さん、お姉さんがよっぽど好きだったのね。だからつまりヤケになって騒ぎ廻ったわけよ。それに、私も悪いことしていたのよ。お姉さまが、軽井沢から帰ったことを、あの人に全然だまっていたのよ。だから、あの人帝劇でお姉さんを見つけたとき、すっかりびっくりしてしまったのよ。フロリダから、近所のバーへ行ったら、美沢さん、ハイボールを二杯も、飲むのよ。そして酔っぱらって、新子さんに、言伝《ことづて》があるというのよ……」
「何ていったの?……」小さく思わず、口に出して呟いた。
「僕は、新子さんの幸福も不幸も解りません、サヨナラって! 云ってくれと云うの。お姉さんをあき
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