中に鬱積した思慕の熱情といったものが、ふつふつとして、たぎるのを聞く気がした。新子は、身体中が熱くなり、じっと坐っていられないようななやましさを感じた。
「ですから、どんな誓言でも、どんなお約束でも致しますから、僕に世話をさせて頂けませんか……」じっと、見つめられた眸の強さに、新子は眼をしばたたきながら、
「まあ……そんな心配なんか致しませんわ……心配しているのは、私自身の心ですわ。私、あまりお世話になっていると……」新子は、そこまでいって、食後のマスカットの一粒を、そっととり上げた。
「だから、お互に邪心なく、天空海闊に、お世話になったり、世話をしたりしようじゃありませんか……月も濁らず、水も濁らず……」
「そんなこと出来ませんわ。またいつどんな夕立が来るかも分らないんですもの。」と、新子は恥かしげに微笑した。
二
「はははは。」準之助も、新子のユーモラスないい方に、うちとけて笑いながら、
「だから、お互に、これからどんな夕立にも、一しょに降り込められないよう、気をつければいいと思います。殊に僕は必ず慎みますよ。」と、心に誓うようにいった。
額で、準之助氏の視線を受けながら新子は、だまって味わうように準之助氏の言葉を、聞いていた。
「僕の、前によく友人と行っていたクララという小さい酒場《バー》ですが、客がとても多いんですよ。二十三と二十の兄妹が、二人|限《ぎ》りで三千円ばかりの資本ではじめたというのですが、この頃なんぞ兄の方は金廻りがよくて、競馬などに行ってるという話……食物《くいもの》商売は確かにうまく行きさえすればいいんですよ。」
「はア……そのお話、私よく考えさせて頂きますわ。」
「ああ、それは、……僕は、貴女が、どんなことなさっても、前にも申しあげたように心安く援助させて頂きたいんですから、よくお母様ともご相談なすって……」と、そこで、準之助は、葉巻を出して、火を点じながら、
「コーヒは、あちらで頂きましょう。」と、云って、立ち上った。
また、さっきの待合室のソファに、二人並んで腰をかけると、新子は一時間も食事に時間を費《ついや》したことに気がついて、
「今日は、会社の方は……?」と、訊ねた。
「僕はもう、今日は会社の方へは参りません。貴女、何かご用事でもおありになるんですか……?」と、訊ねかえして来た。
「いいえ。私は浪人でございますもの。」と、新子は、笑いながら云った。
「はははは、じゃア、もう少しご一緒に居て頂いても構いませんね。シネマでも見ましょうか。僕と一しょじゃいけませんか。」
「いいえ。どうぞ。」新子も、もうしばらく準之助氏の、やさしい言葉に慰められていたかった。
「どこがお好きなんですか……?」
「帝劇なんかで観るのが好きなんですけれど、……いま、何を演《や》っておりますかしら……?」
と、云うと、準之助氏は、立って行って、ロビーの隅に置いてある、新聞の綴《とじ》こみを持って来ると、広告欄を開けて指を辿り始めた。
「『裏街』ってのを、演《や》っておりますよ。」
「あ、それは、たいへん評判の映画でございますわ。」
新子は、一ト月前ぐらいに、予告で筋を知っている、可憐な、アメリカのお妾《めかけ》物語を、もう一度頭の中に浮ばせて、人知れず、胸をときめかせながら、
「それ、ご覧になります……?」と、われから誘うように、準之助氏を見上げた。
三
帝劇を出たときは、ちょっとの間、夕霽《ゆうばれ》にあがりそうに見えた空も、また雨は銀色の足繁く降り出して、準之助氏のラサールという、素晴らしく長い車台の車に送られて、四谷の家近く、だがなるべく近所の人の目にふれない所で、おろしてもらった時は、六時というのに冬の日の暮のように暗く、運転手が開いた蛇の目に、点滴の音が、さかんであった。
「ねえ、よくお考え下さって! 僕まだ四、五日は、こちらにいますから、どうか会社の方へ電話を……」と、やさしく云ってくれた準之助氏の言葉を耳の底に、走り去る自動車を見送っていた。
一しょに居ると、頭のてっぺんから爪先までいたわりの限りをこめた、柔かく暖かいものに包まれているようで、相手の好意が、しみじみと有がたく感じられる。だが、それだけにどっか、気のつまる感じがして、
(お夕食もどうですか)と、云われたのに(家で待っておりますから――)と、云って、断ったのは一人になって考えたい心持もあったし、長く一しょにいてはズリ落ちて行くようになる自分の心を、引き止めたい気持もあった。
姉も妹も居ない薄暗い家の中に、ぼんやり独りになると、なんとなく心が滅入り込んで行った。美沢に対する未練までが、心の中に残っていて、一度美沢にあって、美和子のことを思い切り詰《なじ》ってやりたい気持の湧く傍《そば》から、粋
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