三

 新子は、憤《いきどお》りで身体が、熱くなっていた。今まで比較的に、平穏無事であったために、軌《きし》み合うことなしに過ぎた二人の性格の歯車が、今やカツカツと音を立てて触れ合っているのだった。なまじ、相手が肉親であるだけに、つい言葉も、ぞんざいになり、一旦云い出したとなると、真正面から遠慮会釈もなく、切り込む新子の太刀先《たちさき》を、あしらいかねて、圭子はタジタジとなったが、すぐ立ち直ると出鱈目な受太刀を、ふり廻し始めた。
「私が、前川さんから、いつ乞食みたいに、お金を頂いたと云うの……。貴女は、お金というものに対して、俗人根性を持っているから、そんなことを云うんだわ。前川さんは、演劇の愛好者だわ。その方が芸術のために、下さったお金は、浄財よ。それを頂くことなんか、恥でも何でもないわ。だから、私前川さんに、個人で頂くのではない。会として頂くと云ってお断りしておいたわ。だから、個人としての私が、恩に着ることはないし、まして私の妹である貴女が、眼に角を立てて、ワイワイ云うことではないわ。」
「おだまりなさい。下らないわ。前川さんは、私の姉としての貴女だから、会ったのよ。私の姉の貴女だから、お金を呉れたのよ。あの方、演劇愛好者でも何でもありゃしないわ。そんな、空論で私をゴマかそうとしても、駄目だわ。」
「貴女の云っていることの方が、よっぽど空論だわ。俗人の余計なおせっかいだわ。」
「私の云っていることが、おせっかいと思うのなら、私お姉さんを軽蔑するわ。お姉さんみたいのが、役者馬鹿と云うのだわ。昔の千両役者のように、お給金を沢山取っているのなら、お金の勘定も知らないような役者馬鹿も愛嬌よ、他人に迷惑がかからないんだから。お姉さんなんか、まだ役者になり切らない先に、役者馬鹿になられたら、傍《はた》の者がたまらないわ。私が送ったお金をゴマかすなんて辛抱するわ。私の迷惑になるようなお金を、他人様から貰って来ることだけは、かんにんしてもらいたいわ。……お金が、そんなに必要でしたら、私の知らない演劇愛好者から、いくらでもお貰いになるといいわ。前川さんからだけはよして頂戴ね。」
「………」
 姉は、すねて口をきかなかった。
 新子は、やや言葉を柔らげると、
「ね、返して来て頂戴! 家へ持って帰ったら、新子に叱られましたからと云って!」
「バカバカしい。あんたの指図なんか受けないわよ。」
 そう云うと、圭子はサッと、隣の部屋へ引き上げて、聞いていた境の襖をピシリと音を立てて閉ざした。

        四

 新子は、姉と云い争ってから、すぐにも前川氏を訪ねて詫を云い、そのついでに、今後は一切かまってくれないように、頼んでおかないと、姉がいい気になって――また自分への意地も手伝って――何をし出かすか分らないと思った。
 しかし、準之助氏に電話をかけようと思うと、あんな手紙を書いた後だけに、何となくわだかまりが出来て、つい三日ばかり経ってしまった。
 東京へ帰ってからの、打ちつづく悲しさ腹立たしさに、食慾が衰え、新子は急にやせてしまったように、思われた。
 夜は、美和子と床を並べて寝るので、妹が黙っているにつけ、喋るにつけ、その背後に在る美沢のことを考えて、いつまでも心が冴え、やがて思考から来る疲労と悲哀の圧力とで、押しつぶされたように睡眠に入るのは、いつも二時過ぎだった。朝は、夜の間にわれ知らず流した涙がにじみ拡がって頬をぬらしているのだった。
 今朝は、部屋の中が暗く、いつものように暑くなかった。美和子は、心地よさそうに眠っている。起きて、窓から見ると、雨である。サツサツと横なぐりの夏の雨である。八月とは思えぬほど冷たかった。
 新子は、今日は準之助氏に電話をかけようと決心した。姉の問題もあるが、しかし、今よるべき一縷《いちる》の糸もない新子のよりどころない心の寂しさが、そう決心させたのかもしれない。
 十時頃、近所の酒屋から電話をかけると、
「新子さんですか、僕は、もう会って下さらないものだとあきらめて、明日は東京を離れようかと、思っていたところです……」せわしない興奮した声が、新子を何となく微笑ました。
 正午《ひる》、昭和通りのレストゥラントAで、会おうという約束で、電話が切れた。
 家へ帰って、久しぶりでどことなく、ふくらみを持った気持で、鏡台に向うと、新子はまた一層気持が改まった。
 姉妹《きょうだい》とは背《そむ》き合い、美沢までも情けなくも自分を見棄て去った現在《いま》……彼女は、鏡に向って己《おのれ》の顔を眺めていると、この頼りない自分の姿を、そのまま見せてもいい相手は、前川一人のような気がした。
 彼女は、入念な化粧をした。汗がにじみやすい、夏の化粧は浮き立って、思うようにはしにくいものであるが、今日は肌が
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