冷たく秋の初めのように、白粉も紅も、肌によく落着いて心地よかった。
姉よりも地味な好みの、たった一枚持っている上布《じょうふ》の着物に、淡《あわ》い色ばかりの縞の博多帯で、やや下目にキリリと胴を締めて、雨よけのお召のコートを着て、新子は十一時、四谷の家を出た。
ただ一人、円タクの片隅に小さくなって……しかし、思案深げな双眸の下の頬には、ウットリとした明るみが、久々に忍び上っていた。
五
八階まで、エレヴェーターで運ばれて、雨の日の午《ひる》の、さすがに閑散な広い食堂の、ロビイに足を入れると、葉巻をくゆらせて、準之助氏が一人、横顔を見せていた。
新子は、そのまま立ち止って、準之助氏が、こっちを振向いてくれるのを待っていた。
「やあ。」
「私の方が、早いつもりでしたのに、お待たせしてすみません。」
新子は、微笑しながら、準之助氏のかけているソファに間隔を置いて坐った。連れが揃ったと見て、給仕が早くも、メニュを持って、料理を訊きに来た。
「何になさいます。」と、準之助氏が新子を顧みた。
「何でも。嫌いなものございませんから……」
「僕と同じでかまいません?」
「どうぞ……」
「じゃね、ポタージュ、お魚のムニエール。マカロニ・ア・ラ・イタリアン。それだけ貰おう。」給仕は下って行った。
「先日は、姉が突然伺いまして、ほんとうに申し訳ございません。」新子の顔は、恥じらいで赤くなっていた。
「いや、僕は、貴女の代りに、お姉さんが来て下さったことも嬉しかったですよ。」すらすらと苦笑まじりに、そう云う準之助氏の言葉に、
「え?」と、新子が眼を上げると、
「そのくらい、僕は貴女をお待ちしていたと云いたいのです。」
と、冗談めかしく、サバサバ云ってのけて、準之助氏は、新子に姉についての詫言など、云わせまいとする。
「あの晩、僕、すぐ貴女を駅まで、追いかけたのですよ。女房の容子で、貴女がどんなに嫌な気持で、帰られたかがよく解りすぎて、僕もとても厭な気持でした。だから、翌日、軽井沢を引き上げて来たのです。」準之助の気持も、新子の顔を見た時から、興奮し、はずみ上って、何となく浮々としているらしかった。
「お待たせしました。」給仕が、食卓の用意の出来たことを知らせに来た。二人は、ごく親しい連れのように、食卓に着いた。こうした寛《くつろ》いだ気持になったのは、初めてである。窓からは、雨に黒々と濡れている街の屋根が、遠くはるかに眺められて、雨が降っていても、ここ食堂の光線は、豊かに明るかった。準之助は、窓外に眼をやって、ナプキンを拡げながら、
「我々と雨とは、縁があるんじゃないですか、あの日も、今日も……」あからさまに、楽しい思出を辿るような視線で、そういう準之助氏の言葉に、
「え、ほんとうに。」と、答えたが、何だか情《じょう》を迎えるような調子であったことに気がつき、自分一人で羞かしくなり、頬が熱くなった。
六
もはや雇傭関係のない――主人でなく、家庭教師でなくなった二人の物いいは、自然と、わけ隔てがなく、フォークをときどき、休めて優しく話し合った。
「姉に、あんなことをして頂くと、ほんとうに困りますわ。姉は、演劇狂なんですもの、そのためには、どんなことをしても許されると思っているらしいんですもの。この先、どんなご迷惑をおかけするか……」
「いいじゃありませんか。僕は、ああいう方も好きですよ、一本気で……貴女よりもずーっと、子供みたいで……」
「いやでございますわ。そんな比較なんかなすって? もう、どうぞ私達姉妹のことは、捨てておいて頂きたいんですの……」
「それが、そうは行きません。僕には……」肩のこりの除《と》れるような、遠慮のない会話になり、新子は準之助氏に会ってよかったと思った。
「なぜでございます。」
「なぜって、僕は今まで、あまり道楽のない男だったんですから、月々ある程度の出費は、何とも思いませんし、貴女のお姉さんを後援するなんて、僕にとっては嬉しいことですし……それに圭子さんは、僕を演劇愛好家に定《き》めてしまっているんだし……」
「まあ、いやだわ。姉が、つけ上るはずですわ。」と、いったが、しかし新子は準之助の鷹揚《おうよう》な気持が、うれしくなって、つい笑ってしまった。
「それに考えてみると、僕という悪い人間は、貴女を失業させたことに、なっているんだから、どんなにしても、その償いをしなければいけないし……」
「あら、そんな理窟なんか、ございませんわ。」
「ありますとも、大有りですよ、圭子さんが見えた次の日、僕は貴女の手紙を見て、悄《しょ》げてしまいましたよ。これぎりじゃ、僕は貴女を、たいへん不幸にしたことになるんですもの。だから、これぎりになるなんて、僕はたまらないと思いましたよ。だから、
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