だけれど、いわずにいられないわ。ねえ。」
「何? 一体。」
「私ね、やっぱり、前川さんのところに、お礼に行くことにしたのよ。」
「お止しなさいったら……」
「いやアね。人の話を半分しか聞かないで……もう行って来ちゃったのよ。」と、圭子は、福引の一等でも当てたように、得意な表情をした。
「嘘でしょう。いつ? 行く暇なんかないじゃないの。」
「今行って来たのよ。」
 夕景、銀座へ行くといって出かけた姉であった。新子は姉の非常識に、半ば呆れながら、
「いやだわ、お宅へ行ったの。前川さん、びっくりなすったでしょう。まあ! ひどいことするわ!」烈《はげ》しい非難をこめた。しかし、それは姉に通ぜず、
「前川さんて、素晴らしい紳士じゃないの。あんないい方ないわ。私ね、貴女が厭《いや》がっていたから、内緒にしておくつもりだったけれども、前川さんに言伝《ことづて》を頼まれちゃったのよ、貴女に、至急会いたいって! 令夫人は、帰っていないらしいわ。」
「いやだわ。行くのおよしなさいって頼んでいるのに、内緒に行って、そんな余計な言伝なんか頼まれて! お姉さまが直接お礼に行ったとしたら、私もう一生行かなくってもよくなったわ。」と、厭味を云ってから、重ねて、
「でも、もうこれから、前川さんのところへお芝居のことで、話しになんか行ったら、私本気で怒るわよ。」と、つけ加えた。
「そんなこと、今更云ってもダメだわ。前川さんのようないい方ないわ。今日、私この前のお礼しか云わないのに、黙って研究会へ寄附して下さったのよ。随分沢山なお金を……」
「まあ!」新子は、険しい顔で、姉を見上げた。
「そんなに、私に怒ってもダメだわ。私個人で頂いたんじゃないんだもの、研究会へ下さるとおっしゃるんですもの。私一人で左右すべきものじゃないんだもの。」と、新子の非難を外《そ》らそうとする姉を、新子はうらめしく睨《にら》みながら、
「一体いくら頂いたの?」と、詰《なじ》った。
「驚いたわ。私ね、二、三百円だろうと思ったの、それが、そうじゃないの。だから、あまり軽く頂きすぎたと思って後悔しているの。」
「それを、お姉さまは、私と関係なしに貰ったとおっしゃるの?」新子の声は、ふるえていたが、
「まあ、そうよ。」と姉はすましていた。

        二

「お姉さんッ!」正面に見据えて、こう呼びかけた新子の声には、押え切れぬ腹立ちの殺気を含んでいた。
「何よ。」圭子は、あくまでシャアシャアと、眼元で茶化しにかかるのを押えて、
「お姉さんのすることは、まるで乞食か、泥棒のようだわ。」と、鋭く罵《ののし》った。
「何が……」と、あまりにひどい言葉づかいに、さすがの圭子も、色を変えて、白けかえった。
「乞食よりも、泥棒よりも、もっとひどいわ。泥棒だって、親姉妹のものなんかは、盗《と》りはしないと思うわ……お姉さまは……お姉さまは……」新子は、押えても湧こうとする悲憤の涙を、グッと呑み込みながら、
「お姉さまは、私がお母さまに送ったお金まで、無断で盗ったじゃありませんか。」と、云い切った。姉には、このくらい思い切って云わなければ通じないと思ったし、一方つもりつもった鬱憤が、一時に爆発したのであった。
 圭子は、思いがけなくも、自分の弱点を突かれると、普通の応対では敵《かな》わないと思ったらしく、たちまち不貞腐《ふてくさ》れて、眉一つ動かさず、(それがどうしたの?)と云うような顔をして、新子の視線を受けかえしていた。
「そして、あんな非常識極まる電報をよこして……私が、何をしに軽井沢へ行っていたと考えていたの。私は、あの電報を見ただけでも、腹が立ったわ。まるで、滅茶なんですもの。私は、すぐ断りの電報を打つつもりであったの。ところが、前川さんに、あの電報が来たことが分ってしまって、色々に云って下さったから、ついお姉さんの出鱈目《でたらめ》が成功したのよ。でも、あれだけで、もう沢山じゃないの。たった、半月かそこら、お世話になった前川さんに対して、あんなご恩になることだって、随分肩身が狭いじゃないの。それだのにこれ以上、お姉さんは、何をなさろうと思っていらっしゃるの。私に、前川さんの前で、顔も上げられないような、口も利けないような、恥かしい思いをしろと、おっしゃるの、お姉さんには、受けてはならない人の恩を受けるということが、どんなことだか分らないの!」圭子も、唇の血の気がなくなるほど、蒼くなりながら云い返した。
「分っていればこそ、貴女の代りにお礼に行ったじゃないの。」
「だったら、なぜ、お礼を云っただけで帰って来ないの、物ほしそうな顔をして、そんな大金を貰って来るの、まるで、泥棒猫が、投げてくれた魚の骨に味をしめて、ノコノコお座敷へ上り込んで行くような恰好じゃないの。図々しいにも程があってよ。」

 
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