《あて》にして、やりはじめたんですが、この間の公演のとき、配役が不満で、間際になって、およしになりましたので、それでスッカリ予定が狂って、あわててしまったんですの。ほんとに、そんな役不足なんかおっしゃる方は、芸術を理解していらっしゃらないんですわねえ。」
「はア。」準之助が、大人しく聴いているのをよいことにして、どこまで続くか分らないお喋りであった。
こうした演劇熱に夢中になるような姉を持ち、母や妹を控えて、一家の中心として働こうとしていた新子を考えると、自分の新子に対する行為が、結局新子の職業を奪ったことになったのが、ひどく悲しまれた。新子に対する償いのためにも、また自分の助力で、一つの研究劇団が興行を続け得るという楽しみのためにも、少し金を出してもいいと考えた。
「じゃ、劇団には基本金というものが、ちっともないんですか。」
「はア。」
「稽古を始めるのにも、いろいろお金がいるでしょうな。」
「交通費なんか、自弁なんですの。でも、貸席の費用とかお弁当とかそれに宣伝もしなければなりませんし……準備に四、五百円は……」
「ちょっとお待ちなさい!」と、立ち上ると、準之助は部屋を出て行った。
だが、五分と経たない内に、帰って来た。
準之助の中座を、気にしていたらしい圭子は、
「ほんとうに、もう失礼いたしますわ。」と、いいわけのようなことをいいながらも、準之助氏が、席に落ちついて、吸《すい》さしのシガーに火をつけると、また喋り出した。
「私に、もっと力があれば、費用なんかみんな出したいんですの。でも、父が死にましたし、つい新子に、あんな無理なんか申しましたの。でも、お金があると、何かといいですわね。方面は違いますけれど踊りの花柳登美さんなんか、舞台衣裳に、お金を糸目なくおかけになるので、あの方の芸が、それだけ引き立つんですわねえ。」と、少し脱線気味である。
「失礼ですが僕貴女の劇団の基金として、これを差し上げることに致します。」と準之助氏は、袂《たもと》から白い封筒を取り出すと、圭子の顔を見ないように、卓子《テーブル》の上をすべらせた。
七
圭子は、差し出されたその白い封筒を、一眼見ると、興奮に明るんでいる顔を、一層赤くして、
「いけませんわ。」と指先で、押しもどした。
「お収めになって下さい。失礼ですけれども。」
「だって、いけませんわ。今日はほんとうにお礼にだけ、伺ったんですもの。困りますわ。公演が近づきましたら、ご無心に上るかもしれませんけれど、今からこんなにして頂くなんて、いけませんわ。」
「いいじゃありませんか。公演の時は、公演の時として、また切符をお買いしましょう。これは、基金のような意味で……」
「でも……」と、云いながら、圭子はしばらくもじもじしていたが、
「どうぞ、お収め下さい!」と云う準之助の言葉に、圭子は一大決意を示したような表情で、
「じゃ、私個人としてでなく、研究会へ下さるものとして、頂戴してもいいでしょうか。」と、云った。妹に、文句を云われた場合に、自分の責任を軽くするための準備であろう。
「それで、結構です。」と、準之助が、微笑しながら云うと、
「では、有りがたく頂戴致しますわ。」と、云いながら細いきれい[#「きれい」に傍点]な指で無造作に、その封筒を取り上げると、舞台から持って来たような眼顔で会釈をして、ハンドバッグの中に収めた。
その封筒を収めてしまうと、さすがの圭子も、自分本位のおしゃべり[#「おしゃべり」に傍点]をしばらく中止したので、準之助氏はやっと、こちらの云いたいことを云った。
「新子さんにも、お目にかかりたいんですが、そう貴女からもお伝えして頂けないでしょうか。」と、圭子はちょっとあわてて、
「あら、だって先刻も申しましたとおり、私新子に内しょで伺ったんですもの。でも、いいわ。私、それとなく新子に、早くこちらへお伺いするようにすすめますわ。」と、上目づかいに企まざる媚《こび》が溢れた。
「どうぞ。」
「それから、新子のことですが、奥様に何かお気に入らないことがあったそうですが、家庭教師の方がいけないようでございましたら、何か外に適当な……」と、初めて姉らしいことをいいかけた。
準之助は、にわかに真面目な顔になり、圭子に皆までいわさず、
「はあ、それはもう。僕は全力をつくして、あの方のために計るつもりです。」といい切った。
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重なる負目
一
初めは、美和子かと思ったほど浮々と上機嫌で、ジャズを鼻音で唄いながら、二階へ上って来た姉が、いきなり新子の部屋に、ニコニコした顔を見せると、
「私、驚いたわ。」と、いった。
「何が……」と、新子が、ぼんやりしていた顔を上げると、
「貴女《あなた》に、内緒にしておこうと思ったん
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