にしたって一文も外から入って来ないんだからねえ。お前が折角送ってくれるものは、そんな風になってしまうし……」母は、堪え性のない涙をボロボロ膝の上に落していた。
妹が妹ならば、姉も姉だった。
新子は思わず、舌打ちの出そうな自棄《やけ》くそな気持が、胸もとへジリジリと焼けついて来た。
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心なき姉
一
その翌朝のことだった。
宵の化粧を、すっかり拭き取った……そのために一層子供らしく、軽い開いた唇の間に、安らかに正しい呼吸が通《かよ》っている、美和子の寝顔を、新子は複雑な感情で眺めていた。
肉親の姉のことも、先々の生活のことも、一切考えない、どうでも一緒になりたいと、しゃにむに[#「しゃにむに」に傍点]突進する美和子の情熱に、顔負けした新子は、一時は茫然としたが、しかし心の中は荒《すさ》み切っていた。
もちろん、一歩も二歩も間隙のある恋愛であったにしろ、お互に理解し合った愛情を堅く信じていた美沢が、かように速《すみや》かに自分の手から離れるとは思っていなかった。
むろん、やんちゃな妹が、何をいおうとも、もう一度美沢に会って、相手の気持を確かめたい未練が、切実に湧いた。しかし、美沢の心が変っていないとしても、美和子があきらめるはずはなく、結局は姉妹《きょうだい》のあさましい競《せ》り合《あい》になって、お互に気まずい思いの数々を、味わわなければならぬと思うと、今更美沢に手紙一つ書きにくく、電話一つかけにくいような、割切れないものが、心の底に澱んでいた。
美和子が、眠そうに細目を開けた。静かに、首《こうべ》を廻《めぐ》らして、ジッと姉の視線を迎えた。
「もう何時……?」
「八時半頃じゃないかしら……」そう答えた新子の気持は、不思議なくらい、平静なものになっていて、自分でも気づかない内に、姉らしい微笑を向けていた。
「ねえ。お姉さま。昨夜《ゆうべ》よく、お休みになれた……?」寝起きとも思われないほど、ハッキリと晴々した声に、新子は、
「そうね、貴女《あなた》が帰って来て、唄を歌っていたのは知っていたけれど、眠ったふりをしてたわ。なぜ?」と、正直に訊き返した。
「ううん。」と、美和子は、身を転じてしまった。
そうされると、新子はまた平静な気持が、グラグラとこわされかけたので、静かに床を離れて階下《した》へ降りてしまった。
すると、新子の下りるのを待ちうけていたように、圭子が、
「前川さんから速達よ!」と、白い封筒を差出した。ちょっと、かつがれたのではないか、と思いながら、受け取った。が、まさしく裏に元園町のアドレスを刷り込んだ前川氏の手紙だった。
その白い封筒を、サリサリと裂いたとき、新子の気持は、決して平らかなものではなかった。
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いろいろ貴女に、お詫《わ》びしたいことばかりです。僕も昨夜遅く帰って来ました。一刻も早く貴女にお目にかかりたく、その上、お詫の言葉と僕の気持を聴いて頂きたいのです。今日午前中は自宅に、午後は会社におります。いずれかへ、ぜひお電話をねがいます。電話が、ご都合わるき時は、お手紙を。会社の電話番号は、銀座五六八一です。一刻も早くお目にかかりたいと思います。
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文句は、短かったが、新子は相手の、青年のような熱情に打たれずにはいられなかった。
二
手紙を読み了《お》えた新子に、
「前川さんも、東京へ帰っていらっしゃるの?」たちまち、傍《かたわら》から姉が、余計な詮索をし始めた。
新子が、だまっていると、
「何て云ってよこしたの、貴女にすぐ帰ってくれと云うんでしょう……」だまっていると、もっと余計なことを云いそうなので、
「ほんとうは、私奥さまと喧嘩をしてしまったの。ご主人にご挨拶もしないで帰ってしまったので、心配していらっしゃるの。でも、どうにもなりやしない!」
「だって、折角手紙下さるんですもの、行って会っていらっしゃい。今度は、関係していらっしゃる会社の方にでも、使って下さるわよ。」
「いやよ。もう、前川さんのお世話なんかに二度とならないことよ。」
「そうお、それでも、ご主人だけには、挨拶して来るといいわ。私のためにだって、あんなにして下さったんですもの。」
「………」
新子がだまっていると、
「私も、お礼に顔出ししなければいけないわねえ。」と、とんでもないことを云い出したので、
「よしてよ。お姉さんが、余計な所へ顔を出すのは。」と、ハッキリ抗議した。
まるで、この半月ばかり、姉のために奉仕したような気がしていやだった。何から何まで、勝手なことをして(前川さんへお礼に行く)もないものだと思った。
新子は、姉との小うるさい問答を避けて、二階へ上った。そして、美和子を追い立
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