てるように、階下《した》へやると、前川氏への手紙を書き始めた。
 会いたくないことはなかった。自分独りが、こづき廻されているような、悲しい気持を慰めてもらうのには、前川氏に会うのが、一番だったが、こんな迷《ま》い子みたいな今の気持で、前川氏に会うことは、避けたいと思った。今日など会って、こちらの悲しみを話し、お互に慰め合ったりしていると……そこまで考えると、空恐ろしくなったので、このまま会わないか、でなかったら、当分の内でも、会わないことにしたいと思った。

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ただ今、速達を頂きました。私の突然な帰京で、お心を乱してすみません。何とか、一言ご挨拶すべきであったと後悔しています。
お詫びなどと、おっしゃられると、かえって困ります。私も、軽井沢にいたときのことは、みんな夢であったと、忘れ棄てるように努めますゆえ、貴君《あなた》様も、あれは夢であったとお忘れ下さいませ。折角のお手紙ですが、今お目にかかりますのは、何となく恐ろしい気が致しますゆえ、もっと時が経ってから、一度お目にかからせて頂きます。蔭ながら、お子様のご幸福とご健康をお祈りいたします。
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[#地から2字上げ]新子
  前川様

 電話など、到底かける気はしなかった。

        三

 前川氏は、午前中家で新子からの電話を待ち、午後から会社のビルディングへ行き、交換手に電話がかからなかったかと訊いてみたが、いいえ、どなたからもという返事であった。冷房装置が、妙に肌寒く、少し偏頭痛を感じ、絶えず新子からの電話が気になり、留守にした間に、たまった文書に目を通す気にもなれなかった。こんなに、絶えず気がかりになるのであったら、いっそのこと会うべき場所を指定した方が、キッパリしてよかった。電話をかけてくれなどというのが、無理だった。手がるに電話を借りる家がなければ、この炎天に自動電話へ行かねばならず、などと考えて後悔しながら、あきらめ悪く、会社を出たのが、六時近くであった。
 家へ帰って、一人で食事をするのも憂鬱なので、東京倶楽部へ立ち寄って、食事をした。顔見知りの連中は、みんな避暑へ行ったとみえ、ここも淋しかった。
 家へ帰ってみたが、高原の涼風に馴れた身には、いわん方なく暑かった。洋館の居間には、風が通らないので、浴衣《ゆかた》に寛《くつろ》ぐと、庭に面した下座敷の十二畳のガラス障子を開け放って、冷たい飲み物を前に、涼を入れていると、縁側に女中がピッタリと坐って、
「あの、南條さんとおっしゃる方が、お見えになりました。」と、しかつめらしく云った。
「えっ!」と、思いがけないことなので、訊き返すと、
「若い女の方でございます。」という。あまりの吉報なので、かえって信じられず、
「おかしいな。軽井沢に行っている南條先生かい?」と訊き返すと、
「さあ。私は、南條先生には、お目にかかったことはございませんけれど、多分その方でございましょう。若い、お美しい方でございます。」と云う。
 準之助は、そう答えられると、もう疑う余地はなかった。(電話をくれ)と云ったのを相手はまだるしとして、直接に来てくれたのである、あの人が、こんなに簡単に手がるに(妻も一しょに帰っているという危険もあるのに)来てくれるとは思わなかった。――ともあれ、早く会いたい。にわかに、生々《いきいき》とあわて出した。
「応接室へ――暑いだろうね、どこも……」
「はあ。」
「と云って、ここじゃわるいし。応接室へ、煽風器をかけて、冷たいものを差し上げて……」自《おのずか》ら弾む口調で、命じると、浴衣ではわるいと思い、さっき脱いだ黒い上布《じょうふ》に着かえ、応接室へ急いだ。
 だが、応接室へ、顔をのぞかせて、思わず、
「あっ!」と、小さくはあったが、口に出して叫んでしまった。彼は、訪客を新子であると信じ切っていたのに、彼が部屋へはいると同時に、立ち上った女性は、全然見知らぬ女性であった。しかも新子くらい美しい……。

        四

 準之助がけげんな面持で、一歩を部屋の中に進めると、見知らぬ美しい女性は、たちまち立ち上って、愛嬌深く笑った。その唇元《くちもと》で、準之助は、やっとこの女性は、新子の姉妹であると思い当った。かれも初めて、親しい笑いをもらして、軽く一礼した。
「妹だとお思いになったのでしょう。私、新子の姉の、南條圭子でございます。妹がいろいろお世話になりまして……」鹿つめらしい挨拶に、
「いや。どうぞ、おかけ下さい!」と、席に落着かせた。新子の電話を待ちつづけた準之助には、思いがけない姉の訪問は、多少とも心うれしいことだったが、同時に新子が病気にでもなって、その断りに姉をよこしたのではないかと、少し不安になっていた。
 新子よりは、二つくらいは上の二十三
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