のない人のように、恨みっぽく、姉にも少し当てつけていうと、また涙になりそうなのを、やっとこらえた。
「新子、起きたかい、起きているなら、ご飯たべたらどう。ここが、片づかないから。」と、母が階下《した》から声をかけた。
「はーい。ただ今。」新子は、それを機会に姉を棄《す》てて、下に降りた。

        七

 下の茶の間には、もう夏の陽がカッと反射して明るかった。
 新子は、茶卓の前に、まだ尾を曳《ひ》いている悲しい気持を、紛らわすように、朝刊を展《ひら》いて坐った。
 母は、ギヤマンの壺から、梅ぼしを小皿にわけて、茶を入れてくれたが、
「どうしたの。新子、額が狭くなったみたいよ。たいへんな顔をしてるわねえ。どうしたの。」心配そうに尋ねた。
「何でもないのよ。」と、母にも少し、すねて答えると、
「何でもないって! 昨夜《ゆうべ》だって、あんなに突然帰って来て、顔色もよくなかったし、こっちだって心配で、昨夜はろくすっぽ[#「ろくすっぽ」に傍点]眠りもしなかったのよ。話しておくれ、ほんとうに、どうおしだい?」
「どうもしないわ。ただね、前川さんの方、もうダメになってしまったの。どうも、奥さまと、うまく行かないの。今朝起きてそのことを考えていたら、つい悲しくなって! でも、もうなんでもないの。」
「お父さまがね、生きていて下さったら、お前に他人《ひと》さまのご飯をたべさせるようなことは、しないでも済むのに……お父さまも、もう五年生きていたいと、おっしゃっていたが……奥さまはむずかしい方らしいと、初めからお前も云っていたね。あんなに遅い汽車で、若い娘を帰しておよこしになるなんて!」愚痴まじりに、母の声が悲調を帯びて来た。
 新子は、母に狭く見えると云われた額のあたりをさすりながら、つとめて快活に、
「汽車なんか、私が勝手に遅い汽車に乗ったのよ。そりゃ、お子さん達は、とても素直で可愛いのよ。私に、とてもよくなついて、女のお子さんなんか、病気中、まるで私がお母さんの代りなの。だから、ご主人が、あんなに沢山お金《かね》下さったのよ。ねえ、お母さん! あのお金、どうなすった? 月末の払いをして、少しは残ったでしょう?」と、訊ねると、
「お金って、何だろう。」と、母は、けげんそうに、目を刮《みは》った。
「あら、いやアね。お嬢さまが、ご病気の時、私がよく看護してあげたので、そのお礼として、お金を頂いたから、その内私十円だけお小づかいに取っておいて、後は書留で送ったはずよ。」と、新子も興奮して説明した。
「知らない。初耳よ。そんなこと!」
「まあ! 着かなかった?」新子は、驚いて母の顔を見つめた。
「いやだわ。大金よ、お母さま。」
「いくら。いつ頃送ってくれたの?」
「百四十円、十日くらい前。」
「まあ!」母もあきれて目をまるくした。

        八

 母は、どうにも腑《ふ》に落ちないという眼を、新子に向けながら、
「まあ? おかしいわねえ。十日くらい前だって、一度だって、家を空けたことはないんだがねえ……」と、云いさして、台所に向い、
「おしげさん。」と、婆やを呼んだ。
「はい。」と、婆やがそこから、顔を出すと、
「十日くらい前に、家へ書留が来なかったかしら。」と、訊いた。
 婆やは、ちょっと首をかしげると、
「そうですね。いつか、上のお嬢さまが、書留らしいものを、お受けとりになったようでございますよ、たしか。」と、云った。
 そう云われて、母と新子とは目を見合わしたが、新子が、
「お母さま。じゃ、私お姉さまに訊いてみるから……」と、腰を浮かすのを、母は、
「新子!」と、おずおず呼び止めた。
 新子を姉娘のところにやることは、母としては何となく恐ろしかった。
「え!」と、探るように、母の前に、もう一度坐り直すと、母はもう涙を浮べていた。
「圭子はねえ。この十日くらい前まで、ひどくお金を欲しがって、わたしも四、五十円は出してやったんだが、いくらでも欲しがるので、お前に云われたこともあるし、ハッキリ断っていたんだが、それが十日前くらいからピッタリ強請《せび》らなくなったので……」母は、早くも姉娘を疑っているのだった。
「じゃ、お母さまは、私の送った書留を、圭子姉さんが、だまって使ったと思っていらっしゃるの……」
「まさかとは思うけれど……」母は暗澹《あんたん》としていた。
「じゃ、私お姉さんに訊《き》いてみるわ。もしそうだとすれば、お姉さん、あんまりヒド過ぎるんですもの。行って訊くわ。お姉さまに。」と、決然として立ち上ろうとすると、
「お前が訊いたんじゃ、姉妹喧嘩になってしまうんだもの。私があとで訊いておくから……。でも、そんなお金があったら、どれだけ助かったか分らないよ。先月は、美和子も随分お金を使うし……いくら、貯金を減らさないよう
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