致しません)
とにかく、一刻もいたたまれないような、言葉で新子を追い出したに違いなかった。
すぐ、夫人の押した呼鈴に応じて、女中がはいって来た。
夫人は、だまったままで、良人に、
(お訊きになっては!)という、顔をした。準之助氏は、さすがに夫人の前で、夫人に踊らされて、そんなムダな問いを発したくなかった。
「別に用はなかった。テーブルの上を片づけてくれ。」といった。
八
常に、つねにそうであるように、夫人とは是非を論ずることは、出来なかった。論ずれば、そこに大破裂があるだけだった。
準之助は、今も夫人の巧妙な、意地のわるい仕打ちの前に、うんともすーともいえず、ズシーンと重く暗く、心が沈んでしまい、ただ一刻も早く夫人が外出してくれればと祈るばかりであった。
だから、彼は夫人が、誘いに来た添田夫人と一しょに出かけるが早いか、すぐ新子の部屋に駈けつけてみた。
机と座蒲団のほか、その人のらしい荷物は影もなく、室内塵一つ止《とど》めない寂しさ、整然さ――準之助氏は、急転直下の勢いで、自分の心が、地の底へめり込んで行くのを感じた。
「おい! おい! ちょっと。」彼は、階段の所へ出て来ると、そこから近い台所の召使を呼んだ。
太った身体をよちよちさせて、駈け上って来た旧い顔の女中に、もどかしげに、
「南條先生は、何時に発った!」とかぶりつくよう。
「先生は、七時半の汽車でお帰りになりましたんですが。ああ、まだ申し上げも致しませんでしたが、先生からお心づけを頂戴致しましたんで……」
「杉山いるかい。」
「ただ今奥さまのお伴で……」
「こまったな。旧道の何とか云うタクシ、あすこへ電話をかけて一台急にと云ってくれ。」
「はい。」
もう、八時近い。しかし、先刻食事の時に聞いた自動車で行ったのなら、新子も汽車に乗り遅れて、駅でマゴマゴしているかもしれない、それがただ一つの心頼みで……。
自分に、一言の伝言もなく去らなければならなかったとすれば、妻の態度がどんなに辛辣《しんらつ》であったかが想像される。恐らく、新子は自分とも再び会わないつもりで、この家を去ったのかも知れない。準之助は、失踪した愛人を、追いかける青年のように、焦慮し緊張していた。
駅までの道を、思いきりスピードを出させたので、雨でこわれた路面のため、準之助の身体はいくども弾んだ。
だが、駅に着いてみると、上りも下りもしばらく間のあるという待合室や、プラットフォームは、寂として人影もなく、準之助は今さらのように、心を抉《えぐ》るような悲しみに囚われてしまった。
新子は、自分にとって最初の恋人である。
むろん、先刻の行為は、穏当ではなかった。
しかし、それが妻に分っているわけはない。妻に分っていることは、雷雨の中で、二人がどこかで会ったかもしれないということである。たったそれだけのことで、罪人をでも叩き出すように、新子を追い出すということが許せるだろうか。
準之助は、他人を一歩も仮借しようとしない、夫人の増上慢に、……その無残な仕打に、良人として、いな一人の人間として、呪咀《じゅそ》の叫びを上げずにはいられなかった。
(俺は、キレイ事が好きだった。平安を愛した。だから、俺は、お前に辛抱したんだ! しかしこうまで、俺を侮辱するなら、俺も人間としての自由と、男性としてのわがままを発揮してやる。こんなことで、新子さんを俺から奪ったつもりでいるのか。俺は、今までの十倍もの強さで、新子さんを追ってやるぞ!)
そんな憤《いきどお》りや決心が、彼の心を縦横に飛び違った。
[#改ページ]
荒む心境
一
新子が、昨夜四谷の家に帰ったのは、十二時過ぎであったが、昼の酷暑に乾き切っている都会の空気は、夜になってもまだむしむしと暑く、殊に建てこんでいるこの裏街では、まだ縁台に出ている人もあり、戸を閉めない氷店もあるくらいで、新子の家も、今しがた美和子が帰って来たばかりらしく、家族は起きていた。
時ならぬ時の新子の不意の帰宅に、みんな不吉な想像しか湧かせなかったが、誰も新子に遠慮してその理由を深くは訊かなかった。
新子も、それを幸いに、妹と一しょに二階へ上ると、いち早く寝衣《ねまき》に着かえて、床の上に四肢をのばした。が、軽井沢の冷々した夜気にひきかえて、夜半過ぎても汗ばむほどの東京の暑さと、昼から引きつづいている胸のもだもだしさのため、容易に寝つかれず、幾度も寝がえりして、二時を聞くまでは、寝わずらっていたが、間もなく文字どおり、前後不覚な深い眠りに落ち、部屋に射し込む暑い午前の日ざしに、眼が覚めるまでは、夢も見ずに眠ってしまった。
眼覚めてしばらくは、頭の中に何もなかった。昨日《きのう》のことさえ跡形もなかった。ただしみじ
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