で、いいじゃありませんか。」ときめつけた。

        七

 母の不機嫌な顔を見て、祥子は危くベソをかきそうになりながら、
「だって、お熱なんか、もう先《せん》からないわよ。」と、云ったが、夫人はもう返事をしなかった。ベルを鳴らして、女中を呼ぶと、子供達を連れ去るように命じた。
 そして、手ずから良人に、コーヒを注いで、手渡しながら、
「私が、貴君《あなた》よりも善良な人間であることを、今日悟りましたわ。」と、子供が居なくなると、果然ねちねちした調子に変った。まさに遠雷の音をきくような気味わるさであった。準之助氏は、少しあわてて夫人の顔を見直した。
「貴君は、ウソつきですわねえ。少くとも、あの南條という家庭教師よりも……」
 たちまち、遠雷は頭上に来た。しかも、夫人は意地わるく、呆気に取られている良人の顔の前で、微笑した。
 準之助氏は、もう万事発覚したのかと蒼くなっていると、夫人は静かに、
「私やはり、家庭教師を替えることに致しましたわ。」
「どうして?」準之助氏は、思わずせきこんだ。
「だって、あんな散歩好きの人、ほほほ……困るわ。夕立の中で、散歩するような人、ほほほ困りますわ。貴君《あなた》も、ご一しょであったそうですね。そりゃ、偶然ご一しょになったのでしょうけれど、それを貴君が私におかくしになったことは、困りますわね。もちろん、あの女がそうさせるように、仕向けたんでしょうけれど……。ほほほほほ、私がやきもち[#「やきもち」に傍点]なんか焼いているとお考えになると、それは貴君の誤解ですわよ。私、貴君がまさかあんな女を、何とも考えていらっしゃらないこと、よく分っていますのよ。私、あんな人に対して、やきもち[#「やきもち」に傍点]を焼くほど、自分をみじめたらしく考えたくないんですの。その点では、充分貴君を信じていますわ。多分、私に対するお話をあの女となすったんでしょうね。それは、よく分っていますの。でも、私、貴君があの女と話をなすったことをおかくしになったということが、気に入らないんですの。……」
(悪魔が吹かせる風は、誇《プライド》という声がすると云うが、この女も悪魔だ!)準之助氏は、自分のした悪事を悔いるよりは、妻の人を人とも思わざる思い上った考え方を憎悪する心が、燃え上った。
 夫人は、平然として云いつづけた。
「夏休み中、家庭教師がなくっても、差支えはないと思いますし、あんな散歩好きの人だと、どういうところを、ウロウロするか分りませんし、狭い軽井沢ですもの、貴君とご一しょのところなんか人に見られたら、私の顔にかかわることですものね。子供なんか誰にだって、馴れますわ。何もあの人に限るわけのものではありませんわ。」
 夫人の性格の中には、やさしさとか素直さとかは、薬にしたくもなかった。すべてが、皮肉で、意地わるで、厭がらせで、しかも鋼鉄の針のように、鋭かった。
 だから、素直に、正面からやきもち[#「やきもち」に傍点]を焼くなどということは、彼女の誇《プライド》が絶対にさせないことである。
(どう? こう、私が云えば貴君は、何も文句はないでしょう)と、そんな眼顔で、準之助氏をながめやりながら、夫人はもうこのことは、片づいたと云わんばかりに、
「何時かしら、添田さんは、随分遅いわねえ。」と、空うそぶいている。
 準之助氏は、心の中の烈しい動揺を、じっと抑えて、
「南條さんは、帰るとすれば、いつ帰るのかね。」と訊ねてみた。
「あの人も、憤《おこ》り虫らしいから、私に暇を出された以上、一晩だってこの家にいないでしょう。もう帰ったのかもしれないわ、貴君にご挨拶もしないで。そうそう、さっきの自動車、あれで帰ったのかもしれないわ。」
 温柔な良人の顔を、馬鹿にしたような笑顔で見やった。
 先刻、自動車のエンジンや警笛が聞えた時、不思議がって訊くと、白ばくれてだまっていながら、今になって、と思うと、準之助氏は思わず、湧き上る怒《いかり》をじっとこらえたが、顔の表情は、あやしく歪んだ。
 そのゆがみ[#「ゆがみ」に傍点]を、夫人はすかさず見て、立ち上って、呼鈴《よびりん》を押すと、
「ご心配なら、女中を呼びますから、お訊きになるといいわ。」と、いった。
 女中を呼んできいてみたとて、新子がいるはずはない。すべてが、夫人の思惑どおりに行われたに違いない、新子にすぐ支度をするように命ずると、きっと女中を通じてこんな風にいったに違いなかった。
(お帰りになるんでしたら、子供達が食事をしている内に、帰って頂きたいんですの。子供達が貴女のお帰りになるのを知って、うるさくつきまとったりすると、ご迷惑でしょうから。主人にも私からよく申しておきますから、直接ご挨拶なさらなくとも、いいと思いますの。でも、強いてお会いになりたいんでしたら、お止めは
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