を解しないため、路傍の花に心を奪わるることなく、上部《うわべ》だけは善良な良人であった。だから、綾子夫人は、良人を信じ切り、良人で得られない刺戟は他の男性から求めていた。
 そこへ突然、新子が出現したのである。今までは(悪妻である。イヤな女性である。しかし、一旦結婚した以上、あきらめる外はない。こういう妻に対して、辛抱するのも、また一つの人生修行である)と、考えていた彼の眼に、たちまち華やかな一つの幻覚が浮び、遠く桃源の里を望み見たような心のときめき[#「ときめき」に傍点]を感じはじめ、生活が急に生々《いきいき》となって来たのである。
 が、不意に時節到来、今日お互に緊張し切迫した気持で、散歩しているとき、雷雨に逢い、平調を失った――あるいは平調を失う口実を得た彼は、思わず新子の顔を腕の中に抱いてしまったのである。
 にわかに、新子を愛人と云ってもよいほど、身近に獲《え》てしまった彼は、自ら非常な覚悟をしなければならなかった。
(このことで、新子を絶対に不幸にしてはいけない。どんな犠牲を払っても、あの人を幸福に!)と、彼はそう思った。彼が以前読んだ英国の小説に(恋愛はしてもいい。しかし、そのために相手を不幸にするな。それが、恋愛をする場合の男子の心得である)と説いたのがあった。
 妻には、絶対に悟られないように、そうして新子さんを出来るだけ、幸福にするように、こうなった以上、それが自分の義務だと準之助氏は考えていた。
 浴室《バス》から上って、セルを出させて着、食堂へ来てみると、幼い兄妹は、食器棚の後《うしろ》に付いている大きな鏡に向って、何か面白そうに騒いでいる。
 その子供達の姿を見ながら、自分とああなった以上、新子が自分の家族達と同じ屋根の下に住むことは、あの人にとって不愉快ではないかしら、よき愛人を獲たことは、子供達のよき家庭教師を失うことになるのではないかしら、……自分は結局子供達のもの[#「もの」に傍点]を奪ったことになるかしらなどと、思いはしきりに新子の上に置かれてあった。
 と、扉が開いて、夫人がはいって来て、席に着いた。見ると、彼女は外出着を着て、美しく化粧している。

        六

 良人は、妻に対して傷もつ脛《すね》の、いつもよりも優しく、
「どこかへ出かけるの……」と訊いた。
「ええ。ルーシイさんのところに、サッパー・ダンスがありますの。行かないかって、添田さんに誘われましたの、八時半頃に迎いに行くって、電話がありましたから、支度をしてしまったんですの、お食事少ししか頂かないわ。」夫人は、普段より、ズーッとおとなしい。準之助氏は、ホッと安心して、
「沢山集まるのかい。」
「ええ、フランス大使のお嬢さまや、松平侯爵夫人なんかいらっしゃるらしいわ。……貴方《あなた》は、この頃少しもお踊りにならないわねえ。ゴルフも一時ほど熱心じゃないし、今に肥っておしまいになるわ。」
「肥ったら、わるいだろうか。」
「肥った男なんて意味ないわ。私、嫌いよ。ダンスにも、お出かけなさいましよ。たまには。」
 と、ひどく愛想がよかったが、でも今宵誘おうとするのでもなかった。父母の会話を外《よそ》に兄姉達は、喰べるのに忙しい。殊に小太郎の健啖ぶりは、痛快と云うよりも、親の眼からは、あの小さい身体のどこへはいってしまうのかと、ハラハラするほどで、スープと肉と、その後のトルヴィルというケチャップで、色をつけた鳥めし[#「めし」に傍点]のような前川家自慢の料理を、大きい皿でおかわりをして喰べている。
「よく喰べられるね。お腹大丈夫かい。」と云う良人の言葉にも、夫人は興味がなさそうに、子供達の方は見やりもせず、レヴァ・トーストばかりを、少しずつ、ちぎってたべている。
 と、前庭に、自動車のはいって来る音がした。
「添田さんが、見えたかね。」準之助氏が問うと、夫人は笑いながら、首を振って、
「違うでしょう。まだ七時ですもの。」
「じゃ、誰だろう。お客さまか。」
「いいえ、私の用事。」と、答えたままだまってしまった。
 自動車は、五分間ばかり止っていたと思うと、すぐエンジンの音を立てて、軋《きし》み出る気配がして、やがて時々鳴らすサイレンが、だんだん遠くなって行った。
 軽井沢へ来てから、昼間あまり、かけずり廻るので、夕ご飯がすむ頃には、もう眠くなってしまう小太郎だった。
 眼の上を、ちょっと不機嫌そうにしかめながら、
「眠いよ! ママ、もうお湯にはいらなくてもいいでしょう。」
「あんまり食べるからですよ。ご飯中、ねむくなるなんて、そんなお行儀のわるいことじゃ駄目ですよ。顔だけでも、洗ってからお休みなさい。」という母に祥子が、
「ねえ、ママ、祥子、明日から南條先生に教えて頂いてもいいでしょう。」と訊いた。
「そんなことは明日になってから
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