なに簡単に話が付いてみると、すべてがそのまま楽しい散歩に変っていた。
 妻が、やかましい権女《けんじょ》であればあるほど、その眼を忍んで、含みのある青い色のうすものに、絹麻の名古屋帯を結んだスラリと伸びた、しかし、どことなく頼りなげな新子と、二尺と離れず歩いていることが……準之助氏にとって、何か恐ろしい何かすばらしい冒険のような気がして悲調を帯びた彼の恋心を深めるのであった。
 二人はあまり、お互同士を意識していたので、やがて間もなく雨となる前ぶれのように、霧が一さんに、峠の樹々の間を薄白く、駈け降りているのに、気がつかなかった。
 準之助氏は丘に上ったら、新子と一しょに見下す軽井沢が、どんなに美しいだろうかと考えていた。
 新子は、準之助氏の何かしみじみした、いつもふっくりと、自分の為に、冷たい風を遮ってくれるような態度を、身に浸みてありがたく思った。が、しかし、それと同時に、なんとなく息づまるような、勿体ないが迷惑だという気持がしないでもなかった。それは、こうした場合における年齢の相違から来る悲しい間隙とでもいわれようか。

        五

 そこらあたりからは、いよいよ深く樹が茂り合っていて、太い幹に、山葡萄やあけび[#「あけび」に傍点]の蔓《つる》が、様々な怪奇な姿態でからみつき、路傍の熊笹や雑草も延びほうだいに延びている。と、ザッザッと異様な音がしたので、新子がドキッとして、思わず準之助氏の方へ肩を寄せると、径《こみち》のすぐ傍から、一羽の雉子《きじ》が飛び出した。雉子の方でも、驚いたらしく、バタバタとたちまち、繁みの奥へ低く飛んでかくれた。
「まあ! 雉子なんでしょうか。」新子の声が、思わず明るくはずんで、巧まぬ媚《こび》を含んでいた。
「雉子ですよ。この辺には、雉子や山鳥が時々いますよ。僕達の散歩を歓迎してくれたのでしょう。心憎き雉子ですよ。」
「いっそ、飛び出すなら、傘を持って来てくれると、よかったのに。もう、引き返したら、よろしいのじゃないでしょうか。何だか、夕立になりそうでございますわ。」新子も、少しふざけながらいった。
「はははは。でも雉子の貸してくれる傘なら、山蕗《やまぶき》の葉かなんかで、軽井沢の夕立の役には立ちませんよ。夕立になるのかな。」と、不安そうに、樹の間をすかして空を眺めた準之助氏の顔にサッと一陣の風が吹き降して来た。樹々の肩が、その風で一斉にかしいだと見ると、大粒の雨が、樹々の葉を、まばらに叩いて渡った。
「これは、いかん!」
 準之助氏は、いささかあわて出して、
「さア降りましょう。ここで降られてはこまる。なるべく濡れないように、樹の下を歩くようになさい!」と、新子を促した。
 が、一町もそうして、坂道を下ったとき、吹き下しの疾風に、足許もおぼつかなく、二人は一時立ち止った。新子の着物の裾も袂も、千切れそうに、前へハタハタと吹きなびいた。髪が頬に、ベッタリとひきついた。その凄い風と同時に、一層陰惨な感じのする暗さが、周囲の繁みから湧き始めた。
「この峠の下に、外人の古い別荘が、二、三軒あったでしょう。あすこまで、とにかく降りましょう。そして雨宿りをさせてもらいましょう。サア。」と、促されて、また半町くらい、足早にかけ下った。
 一の疾風に、つづいて第二第三の疾風が、空に鳴り林に響いて、樹々の葉が、引く潮に誘われる浜砂のように、サーッと鳴って、一瞬底気味わるい静寂が、天地を領した。と、たちまち眼の前の、ぼーっとした仄暗《ほのぐら》い空を切り裂いて、青光りのする稲妻が、二条《ふたすじ》ほどのジグザグを、竪《たて》にえがいた。殷々《いんいん》たる――と云うのは都会の雷鳴で――まるで、身体の中で、ひびき渡るような金属的な乾いた雷鳴が、ビリビリと、四辺《あたり》の空気を震動させた。

        六

 新子は、天変地異に対する恐怖の念で、半ば意識を失ったような気持で、準之助氏の方へ駈け寄った。
「大丈夫! だいじょうぶ!」と、云う準之助氏の声も、次に、豆のはぜるような音を立てて襲って来た雹雨《ひょうう》の音に、かき消された。
 二人は、一心に、径《こみち》を下った。ゴルフ扮装《いでたち》の準之助氏は、何のことはなかったが、新子のフェルトの草履は、ビショぬれになり、白|足袋《たび》に雨がしみ入る気味のわるさ。もう、落葉松《からまつ》の林径《はやしみち》に出ているのであったけれど、雨はますます猛威をたくましくして、落葉松の梢は風に吹き折られそうに、アカシヤは気味わるいほど、葉裏をひるがえして、風に揺られ雨に痛振《いたぶ》られていた。まして、雑草や灌木は、立ち止るひまもないほど、雨と風とに叩き潰されていた。
「こちら! こちらですよ。」と、いつか鳥打《ハンチング》を失くしてしまっていた準之助
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