のあとをザッとかくしてから、部屋を出ると、別荘の裏口から森を抜け、草の小路を真直ぐに、外人の経営している療養所《サナトリウム》の赤い建物の方へ歩いた。
アカシヤの並木がつづき、近く小川のせせらぎが聞えて来る。夏の午後とも思えない静かさである。ここまで、歩いて来ると、新子の気持もずうっと、落着いて来た。
その辺《あたり》を行きつもどりつ歩きながら、そのあたりの風光から、かの女は非常に佳い音楽や、よい絵画や、よい物語を感じていた。美沢さんなどは、このあたりを、どんなに欣ぶだろうかと考えたくらい、すっかり平静な彼女になっていた。
三
彼女が、アカシヤの幹にもたれて、今来た道をふり返ったとき、ゴルフ・パンツに鳥打《ハンチング》の紳士が歩いて来るのを見た。それが、準之助氏の若々しい姿だと気づいたとき、新子の頬に自然な微笑が溢れた。
「お待たせしましたね。」と、準之助氏は近寄って来て、彼女とさし向いにちょっと立ち止まると、
「あちらへ歩きましょう。」と、新子を誘った。新子も、うなずいてアカシヤの並木道を、山手《やまのて》の方へ並んで歩き出した。
準之助氏は、しばらくの間無言だった。
右側の林の中を、見えがくれに小川が流れている。時折、鶯《うぐいす》が鳴き、行く手の道を、せきれい[#「せきれい」に傍点]が、ヒョイヒョイと、つぶて[#「つぶて」に傍点]のように横切って飛んだ。
N博士の別荘から、左に折れると、落葉松《からまつ》の林の間に、外人の別荘地が少し続き、やや爪先上りになった道を、峠の方へただわけもなく歩きながら、準之助氏はまだ黙っていた。
黙っている相手をどう扱っていいか、新子はやや困惑しながら、しかし自分の方から話しかける場合でないので、やっぱり黙って歩いた。
峠道にかかると、楓《かえで》や樅《もみ》やぶな[#「ぶな」に傍点]の樹などが、空もかくれるほど枝を交していて、一そう空気がひんやりとして陽の色も暗くなった。
ポタリと頬に露が、
「雨じゃないでしょうか。」新子は立ち止った。
「いや、樹の雫《しずく》ですよ。お疲れになりましたか。」と、準之助氏は立ち止って、おだやかに云った。
「いいえ。」と、新子は首を振った。
静かな空気の中で、パッとマッチの火が白く光った。準之助氏は、うまそうに煙草を吸いながら、
「いかがです、ずーっと、このまま子供達の面倒を見て下さいませんか。」と、云った。
「はア。」
新子は、準之助氏の長い無言の散歩が、何を意味していたかが、そのときハッキリと分った。
主人として、新子の釈明も求めず、また良人《おっと》として妻のために弁明もすることなく――そういうことは、新子に不愉快な感情を再現させることだと知って、ただ新子の気持をいたわり、落ちつかせ、平静をとりもどすまで、ブラブラと散歩をして、折を見て結論だけを云った準之助氏の言葉を、新子はうれしく思った。
「妻は、もう何でもありませんよ。貴女《あなた》も、さっきのこと、もうお忘れになって下さいませんか。」
「はア。奥さまにお詫びに行こうと思っておりますの。」
「そうですか、それはどうもありがとう。それでホッとしましたよ。」急に、準之助氏は、明るく微笑した。
四
「ほんとうに居て下さるでしょうね。大丈夫でしょうね。」準之助氏は、もう一度くり返した。
「私の方でおねがい致すことですわ。」新子は、こんなに甘えさせられては、いけないと思いながらも、嬉しくなった。
「貴女が、いらっしゃらなくなると、小太郎も祥子《さちこ》も、ガッカリしますよ。僕もガッカリします。どうぞ、これからも、つまらないことは、気にかけないで、のびのびと貴女らしく、子供の面倒を見てやって下さい。どうぞ、これは改めて僕のお願いです。」若者のように、情熱のこもった言葉だった。
「お話は、これですみましたが、ついでに、この次の丘の上まで行きましょう。軽井沢が一目に見えますよ。おつかれでなかったら、ご案内しましょう。」にわかに、少し硬くなった声が――しかしまことに、何気なく新子を誘った。
準之助氏は、新子が、病的にわがままな夫人と、いつかきっと衝突することを心配していた。しかし、聡明な新子のことだから、うまくバツを合わせてくれるだろうと思っていたのが、思ったよりずーっと早く、事件を起してしまった。小太郎から、事件のあらまし[#「あらまし」に傍点]を聴いたとき、これはいけないと思い、新子がこのまま去ってしまうことを考えると、身内のどっかを抉《えぐ》り取られるような気がした。それほど、新子はもう、彼の心の中に深くはいっていた。
だから、新子と会って、新子に止《とど》まってくれるように頼むまでは、何かが咽喉下に突っかけて来ているような感じだったが、こん
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