を、ありがたく見送りながら、(いい方だわ。あの方が、私のことを心の底でどう思って、いらっしゃるにせよ、とにかく、いい方だわ。こんな問題に、こちらをちっとも、不愉快にせずに、あんなに美しくお金を出して下さるなんて!)と、思うと、たまらない気持になって、祥子にいった。
「祥子さんのお父さまは、何ていい方でしょう。ほんとうに、いい方だわ。」
 何だか、祥子に頬ずりしたい気持だった。祥子も、その大きい眼をかがやかし、
「そう。じゃ、先生もパパ好き。」
「ええ大好き。」
「祥子も好き、ママよりもズーッと好きよ。」

        六

 その日の午後、木賀子爵は急に東京へ帰ることになった。新子が小太郎の相手をしている時に、女中が知らせに来たので、新子も小太郎と一しょに、玄関まで見送って出た。
「やあ! また、お目にかかりましょう。お元気で……」木賀は、明るい微笑と遠慮のない調子で、新子に云った。
 相変らず、大公妃のようにすましている夫人が、木賀がそう云うと同時に、いやな一瞥《いちべつ》を新子に送った。
 木賀が自動車に乗ってしまってから、夫人は、あわてて呼び止めた。
「逸郎さん。私、やっぱり駅まで送って行ってあげるわ……駅へ行くの少しおっくうだけれどいいわ……このままでいいんだから……」と、云いさして良人《おっと》の方へ視線を向けて、
「逸郎さんを送って行ってもいいでしょう。ねえ、ちょっと行って来ますわ。」と、云った。いつものとおり、傍若無人で良人の意志など問題でないようであった。
「ちょっとまた、支度しますから……」と、云って、奥へ引き返すと、お化粧を仕直して、帯をしめ直したらしく、十分近くも皆を待たせてから出て来た。
 自動車に乗った二人を、新子は丁寧に頭を下げて見送った。
 サイレンの響きが、かすかになった頃、準之助氏は新子に、
「四谷谷町二七でしたね、さっき電話をかけておきました。もし、お姉さんが留守だったら、劇場の方へお届けするよう、云い添えました。貴女からも、お姉さんに、電報をお打ちになったら、どうですか。そして、お姉さんに、物質的なことは心配なさらないで、専心に舞台の方を、おやりになるよう、激励しておあげになったらどうですか。」かゆい所に手の届くような心づかいだった。まるで、自分に対する親切と好意の権化のように思われた。
 もうその人に対する心の警戒も遠慮も忘れて、頼もしく嬉しくありがたく思うばかりだった。
 姉の歓喜、輝きに充ちた舞台姿などが、胸の内に浮び上って来る。
 なごやかな感情と、充ち溢れる感謝とを、新子は、
「ありがとうございます。」と、簡明にいい表した。
 不当な謝礼を貰った上に、不当なお金を借りる、慎まねばならぬと思いながら、結局新子は、準之助氏に甘えているのであった。
 小太郎は、緑色の自転車に乗って、前庭を、クルクル廻っていた。
「どうぞ、いつまでも、僕の家にいらっして下さい。」
「それは、私の方からお願いすることですわ。」新子の言葉に初めて、媚態らしいものが、ほのめいた。
「僕は、いつも貴女に、今のような晴れやかな顔をして、いてもらいたいのです。お困りになれば、どんなご相談にでものりますよ。」気がつくと、準之助氏があまりに、身近にいるので、新子はハッとして一歩退いた。
[#改ページ]

  姉の代りに




        一

 美沢は、新子からの手紙を受けとった。

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おたより有難う存じました。

小さいお嬢さんが病気になったので、その方に気を取られて、四、五日お手紙を書けなかったのですわ。でも、もうほとんどよくなったので、私も安心しました。ところが三、四日前、私は無茶に走らせて来た夫人の馬と出会頭になって、驚いて樹にぶっつかりましたので、足を痛めましたの。わずかな傷でしたが、ショックの方が大きく、気持がわるくなって、お返事をすぐ書く気になれなかったのでした。
今日は、また森に行って、貴君《あなた》のことを思いました。ここの静かな森を、貴君と一しょに歩きたいと思いましたの。
軽井沢は、ほんとに貴君に気に入りそうなところですわ。何とか都合して、一日でもいいから遊びにいらっしゃいませんか。夜など、一人でぼんやりしているとき、貴君のお部屋の容子なんか、よく思い出していますのよ。今頃は物干しに、貴君はきっと朝顔の鉢をいくつも並べているでしょうね。いつも貴君の書棚の上にかかっている「読書随処浄土」というお父さまが、お書きになったという字額が、すぐ目に浮んできますのよ。ここでは、貴君とお話しするように、心からお話の出来る人は、誰もいませんの。……
[#ここで字下げ終わり]

 七月も終りになってから、美沢の通っている練習所も閑散で、練習はほとんど休みになったので、美沢は大抵家にいた
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