新子も読んだことがある。「彼女」の台辞《せりふ》だって、切々《きれぎれ》に覚えている。そんなことを考えていると、新子は姉に対する、肉親らしい感激で、さっきとは別人のように、興奮してしまった。
四
どうせ、実生活には不向きな姉である。
大空に向って、翼を張り、自由に雄飛すべき天分の持主ならば、それを無理に、家庭生活の煩わしい鎖で、つなぎ止めて、平凡な生活を送らせるよりも、姉の思うままに芸術の世界へ、輝く脚光《フットライト》の国へ送り出してやるのが、妹としての、真の愛情ではあるまいか。天才的な姉のために、自分が犠牲になってやるのが、妹として正しい道ではないかしら。前川さんにお金を借りるくらいの危道《きどう》を踏んでもいいのではないかしら。
今まで、姉の実生活的方面のみを軽蔑していた新子は、姉の他の輝かしい半面を見つけて、新子が実際的の人間であればあるだけ、その光輝に打たれて、すっかり興奮してしまった。
前川氏にお金のことをいい出すのはいやだ。しかし、その嫌さを忍んで、姉のこの機会を充分に生かしてやるのが、自分の義務かもしれないと新子は思った。
新子は、何か物に憑かれたようになって部屋を出た。前川氏は、まだ祥子さんの部屋にいるだろう。居てくれれば都合がいいと思いながら、階下へ降りて行った。
準之助氏は、新子の希望していたとおり、祥子の部屋に居て、今度は新子の代りに、祥子に本を読んで、きかしていた。
父と子は、にわかに晴れやかになった新子の顔を、いくらか不思議そうに迎えた。
「どうなすったんです……?」と、準之助氏が、まず訊いた。
「姉の電報の意味が分りましたの。」
「ほう。どういうわけだったんですか。」準之助氏は、けげんそうであった。
新子は、折りたたんで持って来た新聞を、準之助氏の前に差出しながら、劇評のところを指して、
「姉は、こんな道楽をしておりますの。白鳥洋子というのは、姉の芸名なのでございますの。」と説明した。新子の気持も言葉も、上ずっていた。
前川氏は、それに目を通すと、
「はア。これは、素晴らしい讃辞じゃありませんか。」と、新子の満足そうな笑顔に、やさしい愛情に充ちた眼を向けた。
「ええ。私もびっくり致しましたの。」と、新子はしおらしく合づちを打った。
「それで、先刻の電報は?」
「お金の無心なんですけれども、どうしてお金がいるのか分りませんでしたの。これで、分りましたわ。みんな、学生ばかりですから、この公演の途中で、資金が足りなくなって、困っているのだと思いますの。そして、私のところまで、あんなとばっちりのようなムリな電報を寄越したのでございますわ。これを見るまでは、何が何だか解らなかったんですもの。」と、新子は、少し浮かれてでもいるように、喋りつづけた。
「そうですか。いや、それで安心しました。貴女のお姉さまなら、僕は欣んで後援しようじゃありませんか。」
新子は、嬉しくなって、頬がカーッとなった。
五
「失礼ですが、電報では、いくらほどご入用だと云うのですか。」準之助氏は、続けて訊いた。
新子は、準之助氏と、おずおず眼を合せながら云った。
「もしも、こんなことが許して頂けるんでしたら……私の月々頂くものを、半年分ほどまとめて、拝借できないでしょうか。」
「いや、いや、月給は月給、これはこれですよ。」と、準之助氏は、手を振りながら、
「そのくらいでいいんでしたら、僕が貴女のお姉さんを後援する意味で、差しあげましょう。今日にでも、東京の事務所の方へ電話をして、お宅の方へお届けしましょう。」
「先日、あんなお礼まで、頂いて。でも、あれは、母の方へ送りましたのですが、母は芝居なんかに、とても理解がありませんから、恐らく姉の方へは、ちっとも廻らなかったと思いますの。」新子は、真赤に上気しながら弁解した。
「いや、ごもっともです。お年寄は、女優なんかになるといえば、恐らく大反対でしょう。」と、そういってから小さい娘に、
「祥子や、安心しなさい。先生への電報は、わるい報知《しらせ》じゃなかったんだよ。パパは、ちょっとご用事が出来たから、『コンコン山のきつね』は、また後にしようね。」祥子が、素直にうなずくのを新子は、
「今度は、私がお読みしましょうね。」と準之助氏の膝にある本を受けとった。
「四谷のお宅は、谷町でしたね。谷町の何番地ですか。」
「二十七番地でございますの。」
「お姉さんのお名前は?」
「圭子でございます。」
「ケイ、どんなケイです。」
「土を二つ重ねた。」
「分りました。じゃ、出来れば今日中に届くように。遅くとも明日午前中に届くように。スリー・ハンドレッドでいいんですね。」と、念を押して、前川氏は部屋を出て行った。
新子は、前川氏の後姿《うしろすがた》
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