いけれど、和服で日焼けなさると、お困りになるでしょう……」といった。
新子は、笑いながら、大きなハンカチーフを拡げて、頭から天蓋《てんがい》のようにしながら、
「安心しましたわ。貴君《あなた》には、やっぱり愛人《アミイ》がおありになるんだわ。」と、初めて、本当の親しみを見せて、スパリとした口のきき方をした。
「なぜです。」青年は、驚いたように訊き返した。
「だって、レディにご親切だから……」
「じゃ、今までは僕に愛人なんかいないだろうと、心配していて下さったんですか。」
「だって、あまりお閑《ひま》のように、お見受けしましたの、ほほほほ。」
いたずらいたずらした新子の眸《ひとみ》が、相手の言葉を誘い出すように輝いた。
四
試合《トーナメント》が了《おわ》ると、小太郎がアイスクリームを食べたいというので、三人はブレッツに寄った。そこで、新子はクリームを買った。
卓子《テーブル》に、子爵は新子とさし向いに坐ると、キャメルに火をつけながら、
「貴女がさっき愛人《アミイ》とおっしゃったのは、愛人か許婚《いいなずけ》かのつもりで、おっしゃったのですか……そんな深い意味じゃないんでしょう。それなら、いろいろありますよ。」
「ほほほほほ。だから、安心したと申し上げたじゃありませんか。」
「何もなかったら、心配して下さるんですか。」
「ええ……」といって、すぐ(だって、前川夫人のお相手なんかだけじゃ、お可哀そうですもの)と、いおうと思ったが、小太郎が居るので、笑いながら黙ってしまった。
「僕の方こそ、心配していますよ。貴女のような方が、こんな腕白坊主の相手ばかりしていらっしゃるんだったら……」
「まあ。ひどいことをおっしゃるわねえ。ねえ、小太郎さん!」
「逸郎兄さんは、男の人には、口がわるいんだよ。僕だって、男だろう。」と、小太郎がアイスクリームを、スプーンで口に運びながら、大人のように云ったので、新子も木賀も笑い出してしまった。
「私には、小太郎さん達をお預りしているのが、ほんとうに楽しい仕事なんですもの。だから、案じて頂かなくてもよろしいんですの。」と、新子が微笑で云うと、
「うむ。うむ。」と、子爵は、ちょっと真面目な表情になって、「貴女は随分勝気でいらっしゃいますね。」といった。
「なぜでございますの。」
「前川夫人《マダム・マエカワ》に泣かされないから、あの人に毅然として対抗しているから。」小太郎に分らないようにいった。
新子は、子爵の現実を避けない愉快な物いいに、明るくのびのびと笑った。子爵はつづけて、
「でも、それだけが楽しみじゃないでしょう。愛人《アミイ》だって、お在りになるんでしょう。」と訊ねた。
「ございましてよ。貴君のように複数でなく、単数で……ほほほ。」
「は、はア。これはたいへん失礼致しました。失礼ですが、先刻のハンカチーフをお返し下さいまし……」
相手のあざやかな応酬に、新子はポッと赤くなりながら、さっきから返しそびれてキレイに畳んで懐《ふところ》にしまっていたハンカチーフを返した。
三人は、やがてブレッツを出た。
若い男と女との会話は、全く磁石のような力を持っているものだ。まして、新子の情感に溢れたほがらかな言葉づかいは、相手にひしひしと浸み込んで行くような性質のものだった。
だから、わずかの間ではあったが、子爵の心には、新子に対する深い親愛と好意とが湧き上った。
しかし、最後の言葉が、いけなかった。単数の愛人《アミイ》あり! それは(われに、近寄り給うな)と、いう警笛《アラーム》のようにも聞えた。
五
子爵は、歩きながら考えた。単数の愛人って、誰だろうか。まさか、準之助氏ではあるまい。でも、昨日《きのう》、新子が負傷した時の、準之助氏の狼狽《うろた》えかたは、少し可笑《おか》しかった。それに、新子を見るときの情熱の籠った双眸! でも、まさかと子爵は、そんな考え方を捨てようとした。
両側の草原から、絶えず、清々しい香りが立ち上って、胸を気持よく柔らげるのであった。
小太郎が、大きい揚羽の蝶を見つけて、草原の中へ十間ばかり追いかけて行った。
しばし黙っていた木賀子爵は、その機会に、
「マダムは、難物ですが、前川氏は、きっといい味方になってくれるでしょう。あの人は、元来|女性尊重主義者《フェミニスト》だから……」
「まあ、なぜ……貴君《あなた》はそんなことをおっしゃるのですの。」
木賀の云い方に、すぐ賛成するかと思った新子が、思いがけなく反撥したので、木賀は大きく見張った新子の視線を、あわててそらしながら、
「僕が、あの人をほめては、いけないんですか。」と、タジタジしながら云った。
「いいえ。お賞めになっても結構ですわ。でも、私とマダムと対立でもして
前へ
次へ
全108ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング